| 長 | 政 | 離 | 反 | 研 | 究 | 室 |
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| 2. 浅井氏にとっての朝倉氏 |
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●これまでの解釈・・・ 浅井長政が信長から突然離反した理由として、これまでいつも一番にあげられていたのは、浅井氏は三代にわたって朝倉氏と深い同盟関係にあったということである。比較的新規に手を結んだ織田とは異なり、朝倉氏との関係は古い。一説では、織田との同盟に於いて、朝倉氏への不戦や、もしも攻めることになっても、その場合にはまず浅井に相談すべき旨が予め取り交わされていたという。にも関わらず、信長はその盟約を破り、単独で越前を攻めたことが長政離反の理由だとする説も根強い。 浅井と織田との間に結ばれた同盟は、信長の妹お市の輿入れによって成立したことはあまりにも有名であるが、その詳細な条件等の内容については不明である。よって、朝倉に対しての不可侵が盛り込まれていたかどうかはわからない。 浅井氏自体は、近江国の中でそれほど大きな勢力ではなかった為、北近江の支配権を確保するためには、南近江を領有する六角氏と常に抵抗し拮抗していなければならなかった。しかしそれを独力で実現することは困難であったため、「浅井・朝倉同盟」として越前の朝倉氏の軍事的な協力を得ていたというのがこれまで大方の浅井氏の立場としての理解であった。 |
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●一乗谷に浅井氏の館が・・・ しかし、最近の考古学的なアプローチ(発掘)によって朝倉氏の本拠である越前一乗谷には朝倉氏の家臣達に混ざって浅井氏の館跡があったことがほぼ認められており、更には、小谷城をはじめその周辺の浅井氏の城郭はみな朝倉氏の城郭技術がふんだんに取り入れられて築城されていること。また浅井氏の本拠である小谷城を見下ろす立地で、城郭学的な認識からすれば、「詰めの城」に位置する大嶽(おおづく)には浅井氏ではなく朝倉氏側の出城が築かれているなどのこのことから、一部の研究者の間では、浅井氏は越前朝倉氏の被官であったのではないか(→)とする見方が出されている。 もしもそれが事実であるなら、朝倉氏との関係は織田との同盟に対し天秤にかけるまでもなく遙かに重要なものであったことになる。考古学的な検証をもう少し詳しくみておこう。
●小谷城にみられる畝堀から考える・・・ 小谷城内の「月所丸」という曲輪には、現在までに畝堀が8本ほど確認されている。小谷城域内で畝堀が確認できるのはこの月所丸だけである。朝倉氏の本拠である越前一乗谷には、百数十ちかくの畝堀が確認できることから、この畝堀という築城技術を浅井氏が独自に開発したと言うより、既にある程度以上の築城技術を有していた朝倉氏の指導によって作られたのではないかと推論することが容易にできる。
●金吾丸の名の由来・・・ また、小谷城内に「金吾丸」という曲輪があるが、その名前の由来は、朝倉教景のことを金吾といったことから、朝倉教景が作った曲輪(砦)であるとする説がある。これが事実であるなら、浅井氏の居城に他の戦国大名が曲輪を作ったということになる。自らの存在を守るための城の構造を他勢力に知られることは、戦国大名にとって致命的な問題となる筈であるが、その築城に朝倉氏が関わっていたとなると、浅井・朝倉の関係をどう理解したら良いのであろうか。
●国境付近に城が存在しない・・・ 浅井氏の本拠である小谷城と朝倉氏の領国である越前国との間に位置する近江国側の国境付近には、実はまったく城が作られた形跡がない。いくら不可侵の同盟を結んでいたとは言え、戦国大名同士が勢力を接する国境付近に城を作らないというのは通常では考えられないことである。浅井氏と朝倉氏との間が対等の戦国大名同士に結ばれた軍事同盟関係があったのだとしたら、これは不可思議なことではないだろうか。 ●笏谷石が使用されている・・・ 浅井と朝倉の関係を証明するのに、いまひとつ付け加えるなら、小谷城址から発掘された行火(ばんどこ)の中に笏谷石(しゃくだにいし)で作られたものが発見されている点をあげておく必要があろう。 以上のことから、築城という角度から浅井氏と朝倉氏の関係を鑑みた場合、そこには相当密接な関係があったというだけでなく、対等な軍事同盟ではなく、むしろ主従の関係にあったと見るのが妥当ではないかと思われるのである。
●禁制に見られる「下知」と「執達」・・・ 次に、書面等の史料によって浅井と朝倉の関係を証明するこのことは難しいのであるが、両氏が発給した禁制を比較することで両者の関係を検討してみる。 禁制とは戦国大名が発給した文書であるが、姉川合戦時に朝倉景健が出した禁制の書留文言には「仍下知如件」と書かれているのに対し、浅井長政の発給した禁制には「仍執達如件」と書かれているのを見ることができる。 この二つの禁制にみられる書留文言の違いは、朝倉景健の「下知」に対して、浅井長政の禁制では「執達」とあることである。「下知」は単純に上位者が下位の者に指図をする、命令をするということであるのに対して、「執達」というのは、上位者の意を受けて下位の者に通達をすることを意味している。
●寄進された鰐口に・・・ そこで、小谷にある山田和泉神社に奉納された浅井久政の鰐口と朝倉義景の鰐口とを比較検討してみたい。 自領である浅井久政が奉納した鰐口には、
とあるのに対して、同じ山田和泉神社は朝倉義景にとっては他国領内の神社となるのだが、そこへ奉納した朝倉義景の鰐口には
と書かれている。 むしろ、信長による越前侵攻、そして小谷城攻めが開始されたのが元亀元年(1573)のことだから、その翌年となる元亀二年には朝倉氏は浅井氏と協力して織田に対抗している時期と言える。姉川の合戦で大敗し、小谷城下を焼き払われたからこそ、「武運長久」の文字が刻まれているともとれる。 単純に考えれば、朝倉義景にとって浅井氏が治める北近江(小谷)は自国領内という感覚が働いているという意味にとれなくはない。
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参考: |
上記の文面は、中井 均 氏(米原町教育委員会/織豊期城郭研究会)によるご講演『街道を駆け抜けた戦国武将たち・姉川の合戦』(2001年2月25日)の内容を全面的に参考にさせて戴いております。 |
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浅井氏と朝倉氏との同盟は当然、対等ではなく優先なのは朝倉氏であったろうことは納得がいく。しかし、そこにある関係は、被官関係ではなく、あくまでも互いに独立勢力ではあるものの、同盟の締結に於いては、朝倉優位で、従属的な立場に近い関係というものではなかったのだろうか。 例えば、一例として織田と徳川の関係を比較してみたい。織田と徳川は被官関係なのかと言えば、明らかに違う。ほぼ従属的な関係で織田優位ではあるものの、徳川はあくまでも独立した戦国大名であったことは間違いのない事実である。織田氏との関係が冷え込めば、武田氏と手を結び織田氏に敵対することだって有り得たと私は思っている。しかし、徳川氏が選択した同盟の相手は武田氏ではなく織田氏であったということである。 北近江を領有するにあたって、浅井氏は南近江の六角氏に対抗する為に遠交近攻策の常である越前朝倉氏を後ろ盾として同盟関係を締結した。それは同時に越前朝倉氏としても、領国内に一揆を抱え、浅井氏だけでなくその南の勢力が越前領国内に侵入しないことの確約にもなる。浅井氏が常に南に対抗することは、織田にとって武田の楯となった徳川に類似し、朝倉氏にとって浅井氏は六角氏や若狭の武田氏、更に南の三好やその他の勢力の楯となる存在ではなかったのだろうか。その為に、朝倉氏は積極的に浅井氏の要請に応え、協力をしているということではないかと思われる。 織田も徳川の要請によって援軍に出かけることがあった。有名なところでは長篠城の救援となった長篠の合戦などは、正に徳川領内に侵攻する大敵甲斐武田に対抗するために織田が援軍として加勢した良い例ではなかろうか。その際には、同じ城に入り、城郭の修築や補強を手伝うこともあったろう。城の縄張り的に見るなら、丸形の馬出しなどの城郭構成パーツの使用や、攻城戦に於ける陣城築城などはどれも織田氏が得意としたものであるが、武田と対抗する徳川の城に見られるようである。徳川方の奥平氏が守る長篠城に数百挺の鉄砲が備えられ、武田からの猛攻に耐えた一因となっているが、鉄砲といえば織田氏が堺や国友を押さえ大量に確保した武器で、その数からすれば織田氏から回された可能性は否定できない。 また、越前朝倉氏の一乗谷に浅井氏の館跡が発掘で明らかになったという点については、貞享古図という安土山の古地図には、徳川家康の館が記載されており、信長の安土城に徳川家康の館があった可能性を示唆している。しかし、といって徳川氏は織田氏の被官ではない。よって、徳川が織田との間に結んだ同盟の如く、浅井氏と朝倉氏との間に締結された同盟も、独立した戦国大名同士の同盟であり、そこに被官従属関係はなかったと考える方が自然ではないかと考えるのであるが、如何なものであろうか。以上のことは、画期的な論述を中井 均氏が示してくれたからこそ思いついたことであり、中井氏の研究に負うところが大きいことは言うまでもない。 雷蔵(2002.4.
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●ちょっと・・・おまけ・・・その1 以前(2001年10月13日)、米原町中央公民館で『鎌刃城から見た近江戦国史・織田信長VS浅井長政』と題されたパネル討論会があった。司会には当時安土城郭研究所の木戸氏が、そして浅井氏側からの発言者として長浜城歴史博物館学芸員の太田浩氏、織田氏側からは静岡県埋蔵文化財調査研究所の加藤氏がそれぞれ発言を行い、立行司として静岡大学教授の小和田哲男氏がお目付役となられていた。
というものがった。また立行司の小和田氏は
と言っておられる。浅井氏の築城技術が朝倉とは違うオリジナルを有していたかという、そこまでの突っ込んだ展開まで至らなかったものの、太田氏の発言からは被官色は感じられなかったようにも思う。地域性による類似があるにせよ、朝倉氏の城と浅井氏の城という比較をもう少し進めてみたいと思う内容であった。 |
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●ちょっと・・・おまけ・・・その2 朝倉義景の鰐口に関連して、少々面白い鰐口の寄進が越前に見られることを示しておきたい。というのは、朝倉義景の鰐口と同時期となる元亀二年に、織田信長が自国領内ではない越前国の白山別山宛に「平信長」の名で鰐口を寄進奉納しているのである(→信長287号文書)。信長はこの年、越前攻めを開始していることから考えると、そこに示された意味は深いと言える。 |
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