第21研究室

浅井長政、離反の真意を探る

 浅井氏にとっての朝倉氏



 2. 浅井氏にとっての朝倉 

朝倉氏との同盟 

これまでの解釈・・・

 浅井長政が信長から突然離反した理由として、これまでいつも一番にあげられていたのは、浅井氏は三代にわたって朝倉氏と深い同盟関係にあったということである。比較的新規に手を結んだ織田とは異なり、朝倉氏との関係は古い。一説では、織田との同盟に於いて、朝倉氏への不戦や、もしも攻めることになっても、その場合にはまず浅井に相談すべき旨が予め取り交わされていたという。にも関わらず、信長はその盟約を破り、単独で越前を攻めたことが長政離反の理由だとする説も根強い。

 浅井と織田との間に結ばれた同盟は、信長の妹お市の輿入れによって成立したことはあまりにも有名であるが、その詳細な条件等の内容については不明である。よって、朝倉に対しての不可侵が盛り込まれていたかどうかはわからない。

 浅井氏自体は、近江国の中でそれほど大きな勢力ではなかった為、北近江の支配権を確保するためには、南近江を領有する六角氏と常に抵抗し拮抗していなければならなかった。しかしそれを独力で実現することは困難であったため、「浅井・朝倉同盟」として越前の朝倉氏の軍事的な協力を得ていたというのがこれまで大方の浅井氏の立場としての理解であった。

 
 

一乗谷に浅井氏の館が・・・

 しかし、最近の考古学的なアプローチ(発掘)によって朝倉氏の本拠である越前一乗谷には朝倉氏の家臣達に混ざって浅井氏の館跡があったことがほぼ認められており、更には、小谷城をはじめその周辺の浅井氏の城郭はみな朝倉氏の城郭技術がふんだんに取り入れられて築城されていること。また浅井氏の本拠である小谷城を見下ろす立地で、城郭学的な認識からすれば、「詰めの城」に位置する大嶽(おおづく)には浅井氏ではなく朝倉氏側の出城が築かれているなどのこのことから、一部の研究者の間では、浅井氏は越前朝倉氏の被官であったのではないか(とする見方が出されている。

 もしもそれが事実であるなら、朝倉氏との関係は織田との同盟に対し天秤にかけるまでもなく遙かに重要なものであったことになる。考古学的な検証をもう少し詳しくみておこう。

 

小谷城にみられる畝堀から考える・・・

 小谷城内の「月所丸」という曲輪には、現在までに畝堀が8本ほど確認されている。小谷城域内で畝堀が確認できるのはこの月所丸だけである。朝倉氏の本拠である越前一乗谷には、百数十ちかくの畝堀が確認できることから、この畝堀という築城技術を浅井氏が独自に開発したと言うより、既にある程度以上の築城技術を有していた朝倉氏の指導によって作られたのではないかと推論することが容易にできる。

 

金吾丸の名の由来・・・

 また、小谷城内に「金吾丸」という曲輪があるが、その名前の由来は、朝倉教景のことを金吾といったことから、朝倉教景が作った曲輪(砦)であるとする説がある。これが事実であるなら、浅井氏の居城に他の戦国大名が曲輪を作ったということになる。自らの存在を守るための城の構造を他勢力に知られることは、戦国大名にとって致命的な問題となる筈であるが、その築城に朝倉氏が関わっていたとなると、浅井・朝倉の関係をどう理解したら良いのであろうか。

 

国境付近にが存在しない・・・

 浅井氏の本拠である小谷城と朝倉氏の領国である越前国との間に位置する近江国側の国境付近には、実はまったく城が作られた形跡がない。いくら不可侵の同盟を結んでいたとは言え、戦国大名同士が勢力を接する国境付近に城を作らないというのは通常では考えられないことである。浅井氏と朝倉氏との間が対等の戦国大名同士に結ばれた軍事同盟関係があったのだとしたら、これは不可思議なことではないだろうか。
 南近江の六角氏とは愛知川を挟んで対立関係にあったが、これに対しては、国境を固める為の佐和山に城を堅持しており、六角氏の侵入に備えている。(佐和山城は、元は六角氏の城であったが、長政の祖父・亮政の時代に占領したものである。)
 まして、敵対が明確化した姉川合戦直前の浅井氏となると、専ら織田氏に対する防御のための城の修築等を行っている。それらは皆、浅井氏の領国である北近江と織田氏の領国である美濃との国境に「境目の城」を築城しているのがわかる。
 朝倉氏に対してはまったく無警戒に境目の城を作らない浅井氏が、一度は同盟していたが敵対関係になった織田氏に対しては急遽、国境に城の修築を行っているのである。この差はあまりにも歴然としている。
 更に修築を行った坂田郡山東町の長比城及び上平寺城では、3m程の高さの土塁が付け加えられた遺構が現在でも確認できるが、こういった遺構は本来、浅井氏の城には見られることはない。これも朝倉氏の築城技術によるものと考えられ、織田氏に対する防御を浅井・朝倉の両氏が共同して行っている様子が伺えるのである。
 もう少し整理をするなら、浅井と朝倉の間には国境という感覚が存在せず、対六角氏または対織田氏に関しては明確に国境で防御をするための「境目の城」を構築しているということになる。

笏谷石が使用されている・・・

 浅井と朝倉の関係を証明するのに、いまひとつ付け加えるなら、小谷城址から発掘された行火(ばんどこ)の中に笏谷石(しゃくだにいし)で作られたものが発見されている点をあげておく必要があろう。
 笏谷石というのは、越前でしか採れない石なのである。それにも関わらず、自然石としてではなく、城の築材として小谷城址から発見されているということは、その石を越前から運ばせて築城に利用したという他にないことの証左である。

 以上のことから、築城という角度から浅井氏と朝倉氏の関係を鑑みた場合、そこには相当密接な関係があったというだけでなく、対等な軍事同盟ではなく、むしろ主従の関係にあったと見るのが妥当ではないかと思われるのである。

 

禁制に見られる「下知」「執達」・・・

 次に、書面等の史料によって浅井と朝倉の関係を証明するこのことは難しいのであるが、両氏が発給した禁制を比較することで両者の関係を検討してみる。

 禁制とは戦国大名が発給した文書であるが、姉川合戦時に朝倉景健が出した禁制の書留文言には「仍下知如件」と書かれているのに対し、浅井長政の発給した禁制には「仍執達如件」と書かれているのを見ることができる。

 この二つの禁制にみられる書留文言の違いは、朝倉景健の「下知」に対して、浅井長政の禁制では「執達」とあることである。「下知」は単純に上位者が下位の者に指図をする、命令をするということであるのに対して、「執達」というのは、上位者の意を受けて下位の者に通達をすることを意味している。
 つまり、浅井長政の禁制は、長政自身のものではなく、更に上位者の意志を下に間接的に伝達するという意味合いのものであり、禁制を発給した長政の上に本来の発給者が存在することを意味している。それは誰かと言えば、浅井氏の上位にある者というのは本来なら北近江の守護職にある京極氏ということになる。しかし、ここでは、朝倉景健の存在を完全には否定できないというところである。

 

寄進された鰐口に・・・

 そこで、小谷にある山田和泉神社に奉納された浅井久政の鰐口と朝倉義景の鰐口とを比較検討してみたい。
 本来、自分の領地にある神社等に鰐口を奉納するのは当然であるが、他国の神社に奉納することは通常は有り得ない。

自領である浅井久政が奉納した鰐口には、

天文廿一年(一五五二)十月浅井久政奉納
小谷表山田和泉大明神
奉掛
願主浅井左兵衛尉久政天文廿一年十月

とあるのに対して、同じ山田和泉神社は朝倉義景にとっては他国領内の神社となるのだが、そこへ奉納した朝倉義景の鰐口には

元亀二年(一五七一)五月朝倉義景奉納
江北表山田和泉大明神金口
国土安全,武運長久 敬白
于時元亀貳辛・未五吉祥日、願主越州義景

と書かれている。
他国である筈の神社に奉納した鰐口に「国家安全・武運長久」等とは書いているのである。希に他国への鰐口の寄進奉納がみられたとしても、それは治安が安定しない二者の支配が交差する地帯に、両者から出されるという構図である。しかし、この場合、浅井氏の本拠である小谷の神社であるから、朝倉義景の鰐口にある元亀二年の時期に、その周辺で浅井氏と朝倉氏の両氏の支配が衝突していたという事実はまったく確認できない。

 むしろ、信長による越前侵攻、そして小谷城攻めが開始されたのが元亀元年(1573)のことだから、その翌年となる元亀二年には朝倉氏は浅井氏と協力して織田に対抗している時期と言える。姉川の合戦で大敗し、小谷城下を焼き払われたからこそ、「武運長久」の文字が刻まれているともとれる。

 単純に考えれば、朝倉義景にとって浅井氏が治める北近江(小谷)は自国領内という感覚が働いているという意味にとれなくはない。

 

参考:

上記の文面は、中井 均 氏(米原町教育委員会/織豊期城郭研究会)によるご講演『街道を駆け抜けた戦国武将たち・姉川の合戦』(2001年2月25日)の内容を全面的に参考にさせて戴いております。


【まとめ】

 
 以上、築城技術、国境付近での築城実態、禁制の書留文言、小谷に寄進された鰐口など、様々な角度からの検討により、北近江の浅井氏は越前朝倉氏の被官ともいうべき関係にあったとする中井均氏の朝倉被官説は、十分に説得力を有するものである。
 以前、越前朝倉氏の居館跡の調査に行かれる中井氏の車に同行させて戴いたことがあった。その車中で、このお話を詳しくお聞きしたのであるが、信長側からのみ思考を重ねていた私としては、虚を突かれた感のある説であった。
 しかしながら、浅井氏が独立した戦国大名としての立場でなく、朝倉氏の被官という立場にあったのであれば、何故に尾張・美濃・伊勢を領有する大勢力となった織田信長が、上洛するにあたって直接朝倉氏と折衝を持たなかったのだろう。中井氏の言うように江北の地は、浅井氏を通じて越前朝倉氏が治めていたのであれば、信長が同盟や種々の交渉をする先は朝倉氏になる筈ではないだろうか。この疑問は残されたままである。

 浅井氏と朝倉氏との同盟は当然、対等ではなく優先なのは朝倉氏であったろうことは納得がいく。しかし、そこにある関係は、被官関係ではなく、あくまでも互いに独立勢力ではあるものの、同盟の締結に於いては、朝倉優位で、従属的な立場に近い関係というものではなかったのだろうか。

 例えば、一例として織田と徳川の関係を比較してみたい。織田と徳川は被官関係なのかと言えば、明らかに違う。ほぼ従属的な関係で織田優位ではあるものの、徳川はあくまでも独立した戦国大名であったことは間違いのない事実である。織田氏との関係が冷え込めば、武田氏と手を結び織田氏に敵対することだって有り得たと私は思っている。しかし、徳川氏が選択した同盟の相手は武田氏ではなく織田氏であったということである。

 北近江を領有するにあたって、浅井氏は南近江の六角氏に対抗する為に遠交近攻策の常である越前朝倉氏を後ろ盾として同盟関係を締結した。それは同時に越前朝倉氏としても、領国内に一揆を抱え、浅井氏だけでなくその南の勢力が越前領国内に侵入しないことの確約にもなる。浅井氏が常に南に対抗することは、織田にとって武田の楯となった徳川に類似し、朝倉氏にとって浅井氏は六角氏や若狭の武田氏、更に南の三好やその他の勢力の楯となる存在ではなかったのだろうか。その為に、朝倉氏は積極的に浅井氏の要請に応え、協力をしているということではないかと思われる。

 織田も徳川の要請によって援軍に出かけることがあった。有名なところでは長篠城の救援となった長篠の合戦などは、正に徳川領内に侵攻する大敵甲斐武田に対抗するために織田が援軍として加勢した良い例ではなかろうか。その際には、同じ城に入り、城郭の修築や補強を手伝うこともあったろう。城の縄張り的に見るなら、丸形の馬出しなどの城郭構成パーツの使用や、攻城戦に於ける陣城築城などはどれも織田氏が得意としたものであるが、武田と対抗する徳川の城に見られるようである。徳川方の奥平氏が守る長篠城に数百挺の鉄砲が備えられ、武田からの猛攻に耐えた一因となっているが、鉄砲といえば織田氏が堺や国友を押さえ大量に確保した武器で、その数からすれば織田氏から回された可能性は否定できない。

 また、越前朝倉氏の一乗谷に浅井氏の館跡が発掘で明らかになったという点については、貞享古図という安土山の古地図には、徳川家康の館が記載されており、信長の安土城に徳川家康の館があった可能性を示唆している。しかし、といって徳川氏は織田氏の被官ではない。よって、徳川が織田との間に結んだ同盟の如く、浅井氏と朝倉氏との間に締結された同盟も、独立した戦国大名同士の同盟であり、そこに被官従属関係はなかったと考える方が自然ではないかと考えるのであるが、如何なものであろうか。以上のことは、画期的な論述を中井 均氏が示してくれたからこそ思いついたことであり、中井氏の研究に負うところが大きいことは言うまでもない。

雷蔵(2002.4. 1 )   
(2002.4. 9 )追記 
(2002.9.10)追記 

ちょっと・・・おまけ・・・その1

 以前(2001年10月13日)、米原町中央公民館で『鎌刃城から見た近江戦国史・織田信長VS浅井長政』と題されたパネル討論会があった。司会には当時安土城郭研究所の木戸氏が、そして浅井氏側からの発言者として長浜城歴史博物館学芸員の太田浩氏、織田氏側からは静岡県埋蔵文化財調査研究所の加藤氏がそれぞれ発言を行い、立行司として静岡大学教授の小和田哲男氏がお目付役となられていた。
 その時の太田氏の発言の中には・・・

 一般的に云うと、大嶽城,山崎丸,福寿丸は元亀年間の信長との最終的な合戦の時に出来上がった。朝倉氏の助力によって造られたと云われているが、そういうこともいえ無くはないが、私は元々ここに城があったと考えています。ただ合戦当時に越前衆によって作り直されたことは十分考えられる。
 小谷城全体の構想は清水谷をU字型に砦で囲み、搦手にやけお.月初丸という砦もある。そういった雄大な構想になっていたというのは亮政の時代から変わらないと確信している。

というものがった。また立行司の小和田氏

 太田さん、加藤さんのお二人の話は、非常に良いところをついています。浅井は三代にわたって小谷城に居城としていた。一方信長の場合は父親の信秀も最初は 勝幡から、那古野や古渡、末盛 に移ったり、結構転々としている。だから信長の居城移転というのは彼のオリジナルと云うより、信秀のやり方をまねたのではないかと思われる。信秀の場合は尾張国内だけであったが、信長は尾張一国にとどまらず、最前線に城を造っていったことが結果的に天下統一が出来たのだろうと考えられる。
 ただ、城的な作りからすると、小谷城は曲輪が2000ぐらいあって、全域が一種の不沈空母であったように理解しているが、そのような城を造って、最後までここで「がんばるんだ」という想いがあって、戦国時代の生き方の違いが城造りの根本に見られるのではないかという気がする。

と言っておられる。浅井氏の築城技術が朝倉とは違うオリジナルを有していたかという、そこまでの突っ込んだ展開まで至らなかったものの、太田氏の発言からは被官色は感じられなかったようにも思う。地域性による類似があるにせよ、朝倉氏の城と浅井氏の城という比較をもう少し進めてみたいと思う内容であった。

ちょっと・・・おまけ・・・その2

 朝倉義景の鰐口に関連して、少々面白い鰐口の寄進が越前に見られることを示しておきたい。というのは、朝倉義景の鰐口と同時期となる元亀二年に、織田信長が自国領内ではない越前国の白山別山宛に「平信長」の名で鰐口を寄進奉納しているのである(→信長287号文書)。信長はこの年、越前攻めを開始していることから考えると、そこに示された意味は深いと言える。
 更に、信長が「平」を名乗った理由として、源氏(室町将軍足利氏)に代わって平氏である自分が天下を治めることを宣言したとする
源平交代思想があったとされている。しかし、この場合の「源氏」は室町将軍を指すのではなく、越前の朝倉を指しているのかも知れないと、ふとそんな気も沸いてくる。その辺りを加味してこれら二つの鰐口の比較をしてみると非常に面白いのではないだろうか。

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