第21研究室

浅井長政、離反の真意を探る

 浅井長政とはどんな人物だったのか?



 1. 浅井長政とはどんな人物か? 

長政の人物像 

浅井長政はなぜ突然信長から離反したのか?
それを考えるには、まず最初に長政という人物そのものを考察してみる必要がある。
 

長政概略年表

年 代

西 暦

天文14年 1545

-
小谷城主浅井久政の嫡男として誕生。(幼名:猿夜叉)
天文15年

1546
祖父、浅井備前守亮政 没す。
永禄 2年 1559 佐々木六角氏の家臣 平井加賀守定武 の娘を娶る。
永禄 3年 1560 父・久政より家督を継ぐ。
江南の覇者・六角親子と戦。この時長政は初陣。
信長の妹お市と結婚。長政19歳、お市17歳
永禄 4年 1561 名乗りを「賢政」から「長政」に改める。
永禄11年 1568 信長、足利義昭を奉じて上洛。その途上で足利義昭が小谷城に入る。
元亀 元年 1570

6月
織田信長と敵対し、第一回小谷籠城戦
     続けて、横山城の戦い
朝倉氏と連携し、浅井領内姉川にて織田・徳川連合軍と合戦し大敗。
元亀 2年 1571 浅井氏の重臣 佐和山城主 磯野員昌 が信長に降る。
堀秀村・木下秀吉と箕浦の戦い
竹中半兵衛,木下秀吉と横山城の戦い
信長、延暦寺領に逃げ込んだ朝倉・浅井軍をかばったとして比叡山焼き討ち
元亀 3年

1572
織田信長と第二回小谷籠城戦山本山城の戦い
宮部継潤,木下秀吉と宮部城の戦い

天正 元年

1573
織田信長と木戸・田中両城の戦い
     雲雀山砦の戦い
     大嶽城の戦い
     丁野城の戦い

9月1日
第三回小谷籠城戦
 織田の大軍に小谷城を包囲され、長政自刃(享年29才)、小谷城落城。

浅井長政(あざいながまさ )1545年〈天文14〉−1573年〈天正1〉
信義に殉じた湖北の雄
 

 北近江の戦国大名。浅井氏は北近江の守護大名・
京極氏の重臣の一人であった浅井亮政のとき、国人一揆を起こして京極高清を追い出し、小谷城を拠点に戦国大名として頭角をあらわした。しかしその後、南近江の六角氏としばしば戦っては敗れ、越前の朝倉氏を頼って復帰している。亮政のあとを久政が、そのあとを長政が継ぎ浅井三代とよばれるが、朝倉氏との結びつきは父祖以来のものであった。
 はじめ南近江の大名
六角義賢の一字を受けて賢政を名乗ったが、1560年(永禄3)家督を継ぎ、同年の野良田(彦根)の合戦で六角氏を破った翌年、備前守長政と改名。以後、しきりに南進を策し、信長の妹お市をめとり友好関係にあった織田氏とともに68年観音寺城を陥落させて六角義賢父子を追放した。ついで高島郡の朽木(くつき)氏を服属させて江北の領有を確立。こうして守護・京極氏を完全に圧倒し、六角氏との同盟関係も清算、独立した戦国大名としての地位を確立し、最盛期を迎えた。
 しかし70年(元亀元)信長が長政との約束を破って越前に侵入を始めると、朝倉との同盟関係を重んじる父・久政と意見が対立したが、ついに信長に離反し兵を挙げる。しかし浅井・朝倉連合軍は
姉川の戦に大敗した。
 以後、本願寺、武田信玄、比叡山などと結び巻き返しを図ったが、73年8月、小谷城は信長の猛攻をうけ
落城、長政は久政とともに自刃した。

信長との関わり

 尾張から美濃、伊勢を平定し大勢力となった織田信長は、第13代将軍足利義輝の弟、足利義昭を奉じて京へ上洛をするにあたり、お市を嫁がせた妹婿・江北の浅井長政に協力要請をしする。その際、信長は自ら佐和山城へ出向き、初めて会見をする。
 信長は浅井長政に逢い、その器量に惚れ込み、大層気に入り天下について話をする。長政も義兄を信用し、上洛に際しての協力を誓った。しかし、このとき、浅井家重臣の
遠藤直経は信長のただならぬ激しい気性を見抜き、今のうちに襲殺した方が浅井家の為になるとして、信長抹殺を長政に進言するが長政はこれを許さなかった。 自分を信用し僅かな供廻りだけで来訪した義兄を討つわけにはいかないと答えたと『浅井三代記』にある。 信義を重んじる武将であった。
 長政の「長」は信長からの偏諱だとも言われ、お互いの器量を認め逢い、将来の天下について語り合った二人であったが、信長が越前朝倉氏を攻めることとなり、長政は苦悩の末、朝倉氏に味方して,滅亡の道を辿ることになる。
 長政の室・お市は、信長の妹であり、その夫婦仲は非常に円満で、一男三女を得ていた。義兄信長と敵対することとなり、最期を迎えた小谷城の蘢城戦では、愛妻お市と三人の姫を信長方に逃がし、その命を助けている。

浅井氏略系譜

浅井長政をテーマとした書物としてどんなものがあるか?

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