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labo-12【本能寺の変探求委員会


 愛宕百韻

光秀の句

「愛宕百韻」の中から明智光秀の詠んだ15句のみを取り出してみました。本来「愛宕百韻」は連歌という形式をとっておりますから、作者別に句を並べても、その前後の句との関係を見なければ連歌としての意味を成さないことは明かです。
 しかし、ここでは敢えて光秀の詠んだ句だけを集めてみました。もしもこの「愛宕百韻」が、本当に光秀の決意を身近な者達に伝える意図があったのなら、自ずとそこには並々ならぬ決意の程が強いインパクトとなって伝えられる筈。そしてそこには必ずや光秀の心の波動が込められていると思われてなりません。彼の詠んだ句、そしてそこで使われた語から何かを感じてみたいと思います。

 No. 光秀が詠んだ句
001  ときは今天が下しる五月哉
010  尾上の朝け夕ぐれの空
017  月は秋秋はもなかの夜はの月
026  深く尋ぬる山ほととぎす
033  葛のはのみだるる露や玉ならん
040  みだれふしたる菖蒲菅原
046  おもひに永き夜は明石がた
049  秋の色を花の春迄移しきて
054  おもひなれたる妻もへだつる
058  心ありけり釣のいとなみ
069  旅なるをけふはあすはの神もしれ
077  朝霞薄きがうへに重なりて
081  たちさわぎては鴫の羽がき
086  しづまらば更けてこんとの契りにて
095  縄手の行衛ただちとはしれ

 どうですか?何か光秀の心境が伝わってきましたか?
やはり、連歌をバラバラにばらして作者別に並べてみても上手く解釈できないようですね。

 それでは、それぞれ個々の句を、その前後の句や当時の状況などを踏まえながらの個別解釈をしてみましょう。

 上の表の各行頭の句番号をクリックして下されば、それぞれの句の解釈のところへジャンプします。


 ときは今天が下しる五月哉

 愛宕百韻の発句として、そしてまた、戦国最大の謎である本能寺の変の首謀者明智光秀が詠んだ句としてあまりにも有名な句である。句頭にある「とき」が「土岐」を示し、一般的には

土岐氏の末裔である光秀がまさに今天下を治める五月になった

という解釈がなされているのであるが、明智光秀の出自はまったく不明で、本当に美濃土岐氏(源氏)の流れを汲む明智氏の出であるのか否か今のところ定かにはできていない。もしも上記の通りの解釈が成り立つのであれば、これが発句だけに、光秀が信長を討って自分がそれに代わって天下を取るという強い意志を込めて詠んだと解すことが出来る。
 更には、本能寺の変の目的意識がここに明確化され、この句も、また愛宕百韻自体も先勝連歌であると断定され、非常に意味深いものとなる。

 また、この連歌会に同座していた連歌師の里村紹巴は、この句から光秀の決意を事変の前に知らされていたにも関わらず、信長方に報告することなく明智に与し、企てに荷担したのではないかとの疑いを秀吉から受けるが、日記の該当個所を書き直し、別に改竄した日記を作るなどをして何とか逃れている。紹巴は、光秀の句は

        ときは今天が下る五月哉

 ・・・であったとし、五月の情景を詠んだものに過ぎないため、自分には光秀の謀叛を知る由もなかった、元々「下なる」とあった部分に何者かが「下しる」と上書きをし自分を陥れようとしたのだと弁明をした。

 本来は、『下しる』の「しる」とは「治る」という意味で、この語の主語として用いられるに相応しいのは天皇だけである。『天が下』も、天が君(天皇)の下に統治された場所を意味するもの。だから、天下とは、天皇からその支配する場所をを静める権限を委ねられた武家が、天皇に代わって統治するのであり、光秀は、信長の天下布武を打ち壊し、自らが天皇の治める秩序のもとに、天皇に代わって統治することを『天が下しる』と詠んだのではないかと疑われたのである。

 しかし、たった一字の違いで、大きく意味合いが異なるというか、文学だけに解釈の仕方は、如何様にも後付け可能であることが知れる。つまり、当時でさえ言葉の意味する真意を曖昧にしか解明できなかったという証しであり、
これのみをして光秀の真意を決定づけるのは難しいのかも知れない。

 しかしながら、日記の改竄という極めて疑わしい作業が行われたこと自体、里村紹巴が本能寺の変に何らかの関わりをもっていたと考えても間違えではないだろう。関わりがなかったにせよ、何らかの事前情報を得ていたと見るべきだと思われる。この二人が思いを詠みあった愛宕の連歌会の持つ意味は深いとあらためて思う。

 さて、光秀の発句は「天が下しる」であることは明白。となれば、それ以外の部分の解釈をもう少し進めてみよう。

 まず、『ときは今』の「とき」とは光秀の出自である「土岐氏」と、時期としての「時」の双方を指すという従来の解釈がある。本来の光秀の出自というのは、先にも述べた通りまったく明らかになって居らず、立証するのは何とも難しい。が、もしもその通りだとするなら、若しくは光秀がそれを自負し、または自称していたのであれば、この時の光秀が、源氏である自分を古の『五月』にあった事績に重ねて句を詠んだ可能性もある。

 それは、例えば、源氏と平氏との闘いの中でも五月に発生したものを探してみると、まずは宇治川合戦1180年 月26日がある。これは後白河法皇を幽閉し、その領地を横領するなどの悪行三昧の平氏に対し、源三位頼政が僧兵を率いて山城・宇治川で挙兵し反旗を翻したものである。源頼政は法皇の皇子以仁王より平家討伐の令旨を受け、天皇の命に従うかたちで合戦に及んだ。正に源平合戦の契機となった事績である。
 また、
承久の乱1221年 月15日)では、朝廷に忠誠を誓っていた源実朝を暗殺し、政権を奪い、悪政を布く執権の北条氏(平氏)を討伐するためため後鳥羽上皇が挙兵をしたもので、この時、土岐氏の多くは倒幕軍に加わっている。
 しかし、この二つの源氏による平氏討伐戦はいずれも失敗に終わっている。しかし三度目の正直となるのが、
平氏の六波羅探題を足利尊氏が襲撃した(1333年 月 7日)倒幕戦であり、これもやはり五月のことである。
 しかもこの時の足利尊氏は、丹波の篠村八幡宮で挙兵し、そこから京へ上洛して六波羅を攻め込んでいる。光秀はこのことを踏まえ、
本能寺の変の際、まず篠村八幡宮に立ち寄り先勝祈願をし、老ノ坂を越え、沓掛を経由し桂川を渡った尊氏とまったく同じルートをなぞるように通って京の本能寺を襲撃している。これは何を意味しているのだろうか。永年に渡って繰り返す平氏討伐の闘い、それが源氏の流れをひく者としての宿命とでも訴えるが如しである。
 そして、更には、陥落した六波羅から落ち延びた北条仲時らは近江の守山付近で野伏の襲撃に遭遇し、馬場宿(現在の米原町付近)で耐えきれず自刃している。この北条仲時の逃避行ルートは、京を襲撃した後の光秀による安土、長浜への掃討戦の進軍路とも符合するのだ。

 世間に悪しき将軍と宣伝して足利義昭を京より追放し、ついには室町幕府を倒し、それに代わって天下を治めるに相応しいのは源平交代思想に従い、自らを「平氏」だと名乗ったのが信長であったことは周知のこと。この連歌会での光秀の発句には、その信長を倒すのは源氏の血筋である土岐氏の自分であるという宣言が込められていたとの推測も成り立つのではないか。

 しかも、光秀が踏襲しようとした3つの事績は、どれも私憤ではなく、朝廷による律令制を復活させ、世の安定を目的としるものばかりである。その何重にも織られた意味を『天が下しる』の語に込めたというのは、いかにも教養人光秀らしい懲りようではないだろうか。
 信長を倒し天下を取るのに、何もそこまでの意味合いを求める必要があるのだろうかと、単純な意見も出てきて可笑しくはない。しかし、主君襲殺・弑逆・謀叛という行動とそれにともなう叛逆者という評価のもつ意味合いは、例え今日の世になっても容易に多くの人に受け入れられるものではなく忌み嫌われるものである。それへの対応法を教養人たる光秀が用意もせずに胆略的な行動に出られる筈はない。このように考えを進めてみると、この句に込められた光秀の心根も朧気ながら窺うことができるように思う。

 光秀は信長によって厚遇されながらもそれに謀叛するという己の行動の落ち度というか、利己的なる欠陥を抱えていることを自負していたのではないだろうか。そして、やむなく挙兵するにあたっての自己正当性を過去の事績に求めたのではないだろうか。
 幕府執権の北条氏(平氏)から厚遇されながら鎌倉幕府を倒幕し、天皇による秩序体制を守ろうとした源氏の棟梁・足利尊氏に自分を重ね合わせ、信長に反旗を翻し謀反することは決して自らが天下を望む個人的な野望や私憤ではなく、朝廷による秩序回復の為、おごれる平氏(信長)を倒すため、天下安定を目的としていたのだと示そうとした。また、光秀はこの自己正当化の考え方を自らの句に詠み込むだけでなく、進軍ルートとして行動でさえも主張したのではないだろうか。

(文責:雷蔵 2002/5/3)   

 

 尾上の朝け夕ぐれの空

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 月は秋秋はもなかの夜はの月

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 深く尋ぬる山ほととぎす

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 葛のはのみだるる露や玉ならん

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 みだれふしたる菖蒲菅原

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 おもひに永き夜は明石がた

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 秋の色を花の春迄移しきて

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 おもひなれたる妻もへだつる

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 心ありけり釣のいとなみ

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 旅なるをけふはあすはの神もしれ

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 朝霞薄きがうへに重なりて

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 たちさわぎては鴫の羽がき

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 しづまらば更けてこんとの契りにて

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 縄手の行衛ただちとはしれ

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 愛宕百韻の中で明智光秀が最後に詠んだ句です。
”縄手”というのはどう解釈するのであろうか?
また、”ただちとはしれ”とあるのは、”直ちに走れ”と訳せなくもない。とすれば、自らの決意を里村紹巴に示し、朝廷へその意志を伝達して貰うことを願ったということなのだろうか。


   
12研究室愛宕百韻全文

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