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第10研究室【文書解読】史料

 

信長公記


巻十五
卅一、  明智日向守逆心の事

翻 刻 文
 (卅一)明智日向守逆心の事

(卅一)  去程に、不慮の題目出来して、
六月朔日夜に入り、丹波国亀山にて惟任日向守光秀逆心を企て、明智左馬助、明智次右衛門、藤田伝五、斎藤内蔵佐、是等として談合を相究め、信長を討果たし、天下の主となるべき調儀を究め、亀山より中国へは三草越えを仕り候。 爰を引き返し、東向きに馬の首を並べ、老の山へ上り、山崎より摂津国地を出勢すべきの旨、諸卒に申触れ、談合の者共先手を申し付け、
六月朔日夜に入り、老の山へ上り、右へ行く道は山崎天神馬場、摂津国皆道なり。左へ下れば京へ出る道なり。爰を左へ下り、桂川打ち越し、漸く夜も明方にまかりなり候。

 

現代語訳
 (卅一)明智日向守逆心の事


(卅一)  さてここに、不慮の事件がもちあがった。
六月一日の夜になってから、丹波の亀山に於いて明智惟任日向守光秀は信長公への謀叛を企て、明智左馬助秀満、明智次右衛門、藤田伝五、斎藤内蔵助利三らと綿密に相談し、「信長を討果たし、天下の主となろう」と謀りごとを企てた。亀山から中国地方へ行くには三草山を越えていくのであるが、 途中から引き返して、馬首を東に向け変え、老の坂を登り、
「山崎から摂津国へ出兵したい」と軍兵達には触れを出しておいて、先に相談をした重臣達に京への進軍の先陣を命じた。
六月一日の夜になって、明智光秀率いる一軍は老の坂を登った。この道を右へ行けば山崎天神馬場へ出る摂津街道である。左へ下れば京へ出る道である。光秀等は道を左へ下り、桂川を越えると、そろそろ夜も明けてきたところであった。

 

【注】

 六月ついたち
 六月朔日   
本能寺の変が発生する前日、つまり天正10(1582)年6月1日のことである。(
 くらのすけ
 内蔵佐   
「内蔵助」のことであろう。つまり斎藤内蔵助利三のこと。
ちなみに「左馬助」は明智左馬助秀満のこと。(
 みくさごえ
 
三草越え
「三草」とは、兵庫県加東郡社町三草の北東加東・多可二群の界嶺の高地の三草山を指す。「三草越え」は、単純に山を越えるという意味で、亀山からこの山を越えて中国地方へ向かうという意味。(
 おいのやま
 
老の山
「老の坂」のことであろう。老の坂は、京都市右京区鷹が峯から丹波に入る坂のこと。この場合は、逆路となるので丹波から京へ入ることを意味する。(
 しょそつ
 
諸卒
多くの兵卒、軍兵。ここでは明智光秀が率いていた軍兵を意味し、直属の主従関係を持たずに信長から光秀配下に置かれた兵もあったかも知れない。または単純に、作戦行動の是非を問わずに動く末端の足軽といった意味。ここでは次に続く「談合の者共」との対比的な意味合いがあることを踏まえておきたい。(
 だんごうのものども
 
談合の者共
本項の最初に「明智左馬助、明智次右衛門、藤田伝五、斎藤内蔵佐、是等として談合を相究め、信長を討果たし、天下の主となるべき調儀を究め、」とあるように、光秀配下の重臣を指している。(
 せんて
 
先手
先陣のこと。談合し、作戦行動の意味を理解している者を先頭にして、行軍させたのであろう。(

 山崎から摂津国へ・・・
光秀は何故に自分が率いる軍の兵卒に向けてこのようなことを言ったのであろうか。言わずもがなであるが、今回の攻撃対象が中国の毛利氏ではなく、信長への謀叛であることをあまり早い時点で明かしてしまうと、士気の乱れが生じ、最悪の場合は密告者が出ることを恐れたのであろう。また、山崎には勝龍寺城があるが、この城は光秀配下となっていた細川藤孝の城である。細川軍との合流をしてから中国路を目指すと言えば誰もが納得するところでもある。敵を欺くにはまず味方からといったところではないだろうか。(


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