天文十六年(1547)十一月上旬、斉藤道三が大垣城を取り囲み包囲しているとの報告が、次々と信秀の元に届きました。「それならば、こちらからも打って出るぞ」と、十一月十七日信秀は援軍を率いて出陣しました。
木曽川・飛騨川を渡り美濃の国へ侵入した織田軍は、竹が鼻(羽島市内)を焼き払い、あかなべ口(岐阜市茜部)に陣を張りました。その報告を受けた道三は仰天して、大垣城の攻撃を緩めて稲葉山城へ退却しました。たやすく目的をはたした信秀は、大変大きな手柄を挙げました。
信秀が留守をしている間、尾張の国では清洲城老臣らが、信秀の居城である古渡城へ軍勢を出し、城下の町を焼き払うという行動に出ました。このときに帰ってきた信秀は清洲勢(織田達勝・信友)と敵対関係に入ります。
平手政秀は、清洲家老衆の坂井大膳・坂井甚介・川尻秀隆らへ和解の書状を何度か送ったが巧くいきませんでした。翌年秋の終わりに互いに譲歩しあって和睦が成立しました。この時、政秀は三人の家老に礼の書状を送りました。その書状のはじめには、このような歌が一首詠まれていました。
袖ひぢて 結びし水のこぼれるを 春立つけふの 風や解くらん*
(袖をぬらしながらすくった水も、今日の春風が乾かしてくれるだろう)
この様に彼は、ちょっとした事でも風雅な人でした。
* 『古今和歌集』巻第一、紀貫之の作