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第10研究室【文書解読】史料

 

信長公記


首巻
四、  みのゝ国へ乱入し五千討死の事

翻 刻 文
 四、みのゝ国へ乱入し五千討死の事
 
(四)去て備後殿は国中憑み勢をなされ、一ケ月は美濃国へ御働き、又翌月は三川の国へ御出勢。
或時九月三日、尾張国中の人数を御憑なされ美濃国へ御乱入。
在々所々放火候て、九月廿二日、斎藤山城道三居城稲葉山山下村々推詰焼払ひ、町口まで取寄、
既に晩日申刻に及び御人数引退かれ、
諸手半分ばかり引取り候所へ、山城道三童と南へ向て切りかゝり、
相支候といへども、多人数くづれ立の問守備事叶はず、
備後殿御舎弟織田与次郎・織田因幡守・織田主水正・青山与三右衛門尉・
干秋紀伊守・毛利十郎・おとなの寺沢又八舎弟・毛利藤九郎・岩越喜三郎初めとして
歴々五千ばかり討死なり。

現代語訳
(四)美濃国へ乱入(みのゝ国へ乱入し五千討死の事)

 織田信秀は、尾張中に援軍を求めて一ヶ月は美濃に出陣し、その翌月には三河にも出兵しました。
天文十六年(1547)九月三日、ありったけの尾張兵を率いて美濃国に侵攻しました。
あちこちに火を放つなどをして、九月二十二日には、斎藤道三の居城である稲葉山城下の村まで、焼き払いました。
軍勢を推し進め町の入り口まで攻め寄せたが日が落ちたので軍勢を退引き上げようとしました。
半分ほど引いたところで斎藤道三の軍勢の襲撃を受けました。
織田軍は支えることが出来ず、殆どの部隊が崩れました。
織田信秀の舎弟織田信康、織田因幡守、織田主水正、青山与三右衛門尉、
千秋紀伊守、毛利十郎敦元、家老の寺沢又八、その弟毛利藤九郎、岩越喜三郎などをはじめとして
5000人もの尾張兵達が討ち死にしました。
 

【注】

     
   


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