┏━┳━┳━┳━┳━┳━┳━┓
┃文┃書┃解┃読┃研┃究┃室┃
┗━┻━┻━┻━┻━┻━┻━┛

第10研究室【文書解読】史料

 

信長公記


首巻
二、  あづき坂合戦の事

翻 刻 文
二、あづき坂合戦の事
 
(二) 八月上旬、駿河衆三川の国正田原へ取出し、七段に人数を備へ侯。
其折節、三川の内あん城と云ふ城、織田備後守かゝへられ侯キ。
駿河の由原先懸にて、あづき坂へ人数を出し候。
則、備後守あん城より矢はぎへ懸出、あづき坂にて、
備後殿御舎弟衆与二郎殿・孫三郎殿・四郎次郎殿初めとして
既に一戦に取結び相戦ふ。其時よき働の衆、

 織田備後守・織田与二郎殿・織田孫三郎殿・織田四郎次郎殿、
 織田造酒丞、是は鑓きず被られ、内藤勝介、是はよき武者討とり高名。
 那古屋弥五郎、清洲衆にて候、討死候なり。
 下方左近・佐々隼人正・佐々孫介・中野又兵衛・赤川彦右衛門・
 神戸市左衛門・永田次郎右衛門・山口左馬助、

三度・匹度かゝり合ひ\/折しきて、各 手柄と云ふ事限りなし。
前後きびしき様躰是なり。爰にて那古野弥五郎頸は由原討取るなり。
是より駿河衆人数打納れ候なり。
 

現代語訳
(二)小豆坂合戦(あづき坂合戦の事)

 
(二)八月上旬、駿河の今川勢が三河の正田原へ軍勢を攻め込ませ七段に陣を張りました。
信秀はその時期、三河の安祥城まで勢力範囲を広げていました。
今川勢は、由原という武将を先陣として小豆坂へ軍を進めました。
そこで信秀も、安祥から矢作まで突き進みました。そして小豆坂で、
信秀舎弟の信康・信光・四郎次郎信実らを先陣として、
今川勢と一戦を交えます。この合戦で軍功を挙げたのは、

 織田信秀、織田信康、織田信光、織田信次、
 織田信房(槍傷を受けた)、内藤勝介(武将を討ち取って功名を挙げた)、
 那古野弥五郎(討ち死にした清洲衆)、
 下方左近貞清、佐々隼人正勝通、佐々孫介、中野又兵衛重吉、赤川彦右衛門景弘、
 神戸市左衛門、永田次郎右衛門、山口左馬助教継です。

三度四度激戦を繰り広げ、各自手柄を挙げました。
那古野弥五郎の首は湯原が討ち取りました。
しかしながらこの合戦より後、安祥城は今川勢の勢力範囲となりました。
 

【注】

 あずきさかかっせん
 小豆坂合戦
 
小豆坂合戦については、天文十一年説、年説、またその双方ともにあったとする諸説が有り定まっていない。(
 八月上旬 天文十一年(1542)の8月10日。(
 


labo-10へ
pagetop