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第10研究室【文書解読】史料
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一、 | 尾張国かみ下わかちの事 |
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| 「是は信長・・・」 | この「」内の一文は、もとは扉に書かれていたもの。 この巻が「巻一」以降とは別個に成立していることが、この註記によってもわかる。 |
| おおたいずみのかみ 太田和泉守 |
『信長公記』の著者、太田牛一のこと。牛一は大永七年(1527)に尾張の春日井郡山田庄安食で生まれ、慶長十五年(1610)以後八十数歳で没した。通称は又(介)助、実名は牛一、後に和泉守に任ぜられた。文書では「信定」を使用していることが確認されている。信長には弓衆として仕え、「弓三張の衆」に抜擢され、信長の身近に侍し、射技によって武功をたてた。知行は三千貫あったらしい。牛一を右筆であったかのように伝えるのは訛伝であろう。(↑) |
| おだいせのかみ 織田伊勢守 おだやまとのかみ 織田大和守 |
ここでの織田伊勢守は織田信安(のぶやす)のこと。 ここでの織田大和守は織田達勝()のこと。(↑) |
| (御)手に付け |
味方につける。(↑) |
| ぶえい 武 衛 |
「兵衛(府)/ひょうえ(ふ)」の唐名。正式には、宣揚・陰明門以外を守衛し、行幸啓の時に供奉し、雑役を勤める役のこと。 この当時、尾張では尾張国守護の斯波氏がこの官職(兵衛)にあったことから「武衛」と称されていたようである。この文面での武衛は斯波義統(しば・よしむね)を指している。(↑) |
| ぶへん 武 篇(武辺) |
武勇に秀でた(↑) |
| きようのじん 器用の仁 |
有能な人。(↑) |
| ごちいん 御知音 |
親友。知り合い。(↑) |
| おとな おとな、長 |
宿老。幼い吉法師(信長)には上記の四名がつけられた。 「おとな」「長」いずれも「おとな」と読むのであろう。一から四まで順に記されていることから、それぞれの役順を示していると思われる。つまり一番上の職が「一おとな」の林新五郎であり、順に「二長」として平手中務丞、「三長」は青山与三右衛門、「四長」が内藤勝介となる。林新五郎は一般には「林佐渡守通勝」としられているが、天文年間の前半ではこの名が使用されていた。しかし諱は通勝ではなく秀貞が正しいようである。また、二長の平手中務丞は御台所賄としても名を出しているが、これも一般には諫死を遂げたとして知られる平手政秀その人である。(↑) |
| だいどころまかない 御台所賄 |
経理を担当する者のことであろう。江戸時代の徳川幕府の職制でいうなら「勘定奉行」といったものにあたるのではないだろうか。(↑) |
| てんのうぼう 天王坊 |
角川文庫版には「津島市牛頭天王社。現津島神社。」とあるが、那古野城のあった位置から推察するには、現在名古屋市中区にある那古野神社の可能性が高い。津島神社の呼称が「天王社」であるのに比して那古野神社は十二坊のうちの首班を「天王坊」と称していたことがわかっており、有力ではないかと考えられる。また、原文に「寺」とあることから考えても、那古野神社は当時、真言宗亀尾山安養寺の名を持ち、こちらと考えた方が正しいのではないかと思われるが、現在のところその他に極めつけとなるようなものもなく、残念ながら特定することはできない。何れにしてもこの「天王」とは「午頭天王」のことで一般にはスサノオウのミコトとして知られている。京都の祇園社関連の神社などは大抵この天王社と呼ばれている。(↑) |
| だんじょうちゅう (だんじょうのじょう) 弾正忠 |
参考:新訂官職要解/講談社学術文庫 |
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