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第10研究室【文書解読】史料

 

信長公記


首巻
一、  尾張国かみ下わかちの事

翻 刻 文
 一、尾張国かみ下わかちの

 
 首 巻

「是は信長御入洛なき以前の双紙なり。」

太田和泉これを綴る

(一) 去程に尾張国八郡なり。上の郡四郡、織田伊勢守、諸侍手に付け進退して、岩倉と云ふ処に居城なり。半国下郡四郡、織田大和守下知に随へ、上下川を隔て、清洲の城に武衛様置申し、大和守も城中に候て守立申すなり。
 
大和守内に三奉行これあり。織田因幡守・織田藤左衛門・織田弾正忠、此三人諸沙汰奉行人なり。弾正忠と申すは尾張国端勝幡と云ふ所に居城なり。西巌 月巌・今の備後守・舎弟与二郎殿・孫三郎殿・四郎二郎殿・右衛門尉とてこれあり。代々武篇の家なり。備後殿は取分け器用の仁にて、諸家中の能者御知音になされ、御手に付けられ、或時、備後守、国中那古野へこさせられ、丈夫に御要害仰付けられ、嫡男織田吉法師殿に、おとな林新五郎・二平手中務丞・三青山与三右衛門・四内藤勝介、是等を相添へ、御台所賄の事平手中務、御不弁限りなく、天王坊と申す寺へ御登山なされ、那古野の城吉法師殿へ御譲り候て、熱田の並古渡と云ふ所新城拵、備後守御居城なり。御台所賄山田弥右衛門なり。


現代語訳
(一)尾張国の状況 (尾張国かみ下わかちの事)

 
(一)そもそも尾張の国は八郡からなっています。上の四郡(愛知北部/丹羽・羽栗・中島・春日井)は、織田伊勢守信安が国人たちを率いて、岩倉城を居城としていました。
残り下半分の四郡(愛知南部/海東・海西・愛知・知多)は織田大和守達勝の支配下にあり、尾張國守護(武衛)斯波義統を守り立てて川を隔てた清洲城を居城としていました。

織田達勝には織田因幡守・織田藤左衛門・織田弾正忠の三人の奉行がいました。その中の弾正忠と呼ばれる家は、代々尾張の国の端にある勝幡に居城を置いていました。
西巌・月巌(信長の祖父・信定)・現在の当主、備後守信秀・弟である与二郎信康・孫三郎信光・右衛門尉信次ら、武辺を誇る家中です。

特に織田備後守信秀は有能な人で、尾張国中の地侍達を従わせていました。
或時、信秀は那古野に堅固な城を作る様、命じました。そして、嫡男の織田吉法師(信長の幼名)に、林新五郎秀貞・平手中務丞政秀・青山与三右衛門・内藤勝介の四人を家老として付けて、その那古野城に入れました。経理担当は平手政秀です。吉法師は、毎日天王坊という寺へ参って勉学に励みました。
信秀は吉法師に那古野城を譲った後、熱田の近くの古渡に新しく城を築き、居城としました。経理担当は山田弥右衛門です。
 

【注】

 「是は信長・・・」  この「」内の一文は、もとは扉に書かれていたもの。
 この巻が「巻一」以降とは別個に成立していることが、この註記によってもわかる。
 おおたいずみのかみ
 太田和泉守
 
 『信長公記』の著者、太田牛一のこと。牛一は大永七年(1527)に尾張の春日井郡山田庄安食で生まれ、慶長十五年(1610)以後八十数歳で没した。通称は又(介)助、実名は牛一、後に和泉守に任ぜられた。文書では「信定」を使用していることが確認されている。信長には弓衆として仕え、「弓三張の衆」に抜擢され、信長の身近に侍し、射技によって武功をたてた。知行は三千貫あったらしい。牛一を右筆であったかのように伝えるのは訛伝であろう。(
 おだいせのかみ
 織田伊勢守

 
おだやまとのかみ
 織田大和守
 
ここでの織田伊勢守は織田信安(のぶやす)のこと。


ここでの織田大和守は織田達勝()のこと。(
 
 (御)に付け
 
味方につける。(
 ぶえい
 武 衛 
 

 「兵衛(府)/ひょうえ(ふ)」の唐名。正式には、宣揚・陰明門以外を守衛し、行幸啓の時に供奉し、雑役を勤める役のこと。
 この当時、尾張では尾張国守護の斯波氏がこの官職(兵衛)にあったことから「武衛」と称されていたようである。この文面での武衛は斯波義統しば・よしむねを指している。(
 
 ぶへん
 武 篇(武辺)
 
武勇に秀でた(
 きようじん
 器用
 
有能な人。(
 ごちいん
 御知音
 
親友。知り合い。(
 おとな
 おとな
 
宿老。幼い吉法師(信長)には上記の四名がつけられた。
「おとな」「長」いずれも「おとな」と読むのであろう。一から四まで順に記されていることから、それぞれの役順を示していると思われる。つまり一番上の職が「一おとな」の林新五郎であり、順に「二長」として平手中務丞、「三長」は青山与三右衛門、「四長」が内藤勝介となる。林新五郎は一般には「林佐渡守通勝」としられているが、天文年間の前半ではこの名が使用されていた。しかし諱は通勝ではなく秀貞が正しいようである。また、二長の平手中務丞は御台所賄としても名を出しているが、これも一般には諫死を遂げたとして知られる平手政秀その人である。(
 だいどころまかない
 台所賄
 
経理を担当する者のことであろう。江戸時代の徳川幕府の職制でいうなら「勘定奉行」といったものにあたるのではないだろうか。(
 てんのうぼう
 天王坊
 
 角川文庫版には「津島市牛頭天王社。現津島神社。」とあるが、那古野城のあった位置から推察するには、現在名古屋市中区にある那古野神社の可能性が高い。津島神社の呼称が「天王社」であるのに比して那古野神社は十二坊のうちの首班を「天王坊」と称していたことがわかっており、有力ではないかと考えられる。また、原文に「寺」とあることから考えても、那古野神社は当時、真言宗亀尾山安養寺の名を持ち、こちらと考えた方が正しいのではないかと思われるが、現在のところその他に極めつけとなるようなものもなく、残念ながら特定することはできない。何れにしてもこの「天王」とは「午頭天王」のことで一般にはスサノオウのミコトとして知られている。京都の祇園社関連の神社などは大抵この天王社と呼ばれている。(
 
 だんじょうちゅう
(だんじょうのじょう)
 弾正忠

 
 本来は、弾正台の第三等官にあたる。その他のどの官職も一等官から四等官までを基本的に「かみ、すけ、じょう、さかん」と読んだ為、ここでも「忠」と書いて「じょう」と読むのではという考え方もある。
 職掌は、「風俗を粛正し、内外の非違を弾奏することを掌る。」とあり左大臣以下の非違は、ことごとく正して奏聞する役である。一等官は「尹(いん)」、二等官は「大弼(ひつ)、少弼」、三等官が「大忠(ちゅう)、少忠」、四等官として「大疏(そ)、少疏、台掌、巡察弾正」があった。またこの職は、本来従三位相当であるが、親王が任ぜられることが多かった。後世、この職の実権は、ことごとく検非違使(けびいし)に移ったため、有名無実の職となったらしい。
 信長の家の家長は代々この「弾正忠」を名乗っており、家も「弾正忠家」と呼ばれるが、本当にこの職にあったわけではない。あるいは尾張国内において非違を弾奏する警察的な役割を司る奉行職にあったのかも知れないが、定かではない。(

参考:新訂官職要解/講談社学術文庫


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