私見

   
 「花押2」から
   2号文書の成立年を考える

文責/ 研究員「ら」    

「花押1」と同形では?

 信長発給文書の2号文書は、年代の記述がない年未詳の文書である。この文書にみられる「花押2」だが、『織田信長文書の研究』では「花押1」に酷似しているとしながらも異体として分別されている。しかし、前後の1号、3号文書で使用されたのが「花押1」であることから考えると、間に挟まれた極僅かな時期だけ変更したというのも考え辛く、この「花押2」も同形と考えても良いようにも思われる。この文書自体が『張州雑志抄』二十六からの写しによることを加味して再考すれば、花押自体も特に異体として分類せずとも良いように思える。

成立が天文十八年以前である可能性...

 更には、この「花押2」が使用されているのはこの2号文書のみであり、その花押形のみによって現在成立年を天文十九年に比定されている。しかし、年代比定理由の裏付けとしてはあまりに薄いように思えてならない。各文書の記述された日付部のみを比較すると、この2号文書は実際には1号文書より早い時期に発給された可能性もあるように思われる。
      
        [判読できる実際の記述]
   
     (1号文書) 天文十八年十一月  日
     (2号文書)       四月 十日
     (3号文書) 天文拾九年十二月廿三日

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            [可能性]

     (2号文書)(天文十八年)四月 十日?
     (1号文書) 天文十八年十一月  日
     (3号文書) 天文拾九年十二月廿三日

 しかしこの場合、文書自体の内容から、弟の勘十郎(信勝)が文書の成立より更に早い時期に余五郎の跡職の安堵を行う権限を有していたということになり、勘十郎が相当に若い時期から熱田周辺に於いてある程度の権能を有していた証左となる。父信秀が熱田周辺にまで勢力を伸ばし、威信を確保したことを物語る熱田での制札発給の初見が天文八年なので、この文書の成立までは約十年ということになる。勘十郎の生年は明かでないが、天文十八年には13〜15歳になっていただろうと思われ、元服は済んでいるであろうが、信長のように父から独立した様子はみられない。信秀は、天文十年前後より三河、美濃の両方面で相次いで合戦を行っていた関係上、勘十郎信勝を懐に置いたまま領内の執務に一部関与させたとの見方も成り立つかも知れない。

成立が天文二十年以降である可能性...

 もう一歩勝手な私考を進めるなら、年未詳(年の記述が無い)の2号文書は1,3号文書より後、そして大きく形状の異なる「花押3」が出現する天文廿一年七月以前の成立の可能性も否定できないように思われる。


      
   

成立年が確定しているもの

年不詳で月日のみのもの

花押タイプ

 1号文書

天文十八年十一月  日
 

花押1

 3号文書

天文拾九年十二月廿三日
 

花押1

 2号文書     (天文二十年)  或いは
 (天文廿壱年)四月 十日

花押?( 1or2 )

 5号文書  

七月廿八日 

花押3

 6号文書

天文廿壱年 十月十二日
 

花押?

 7号文書

天文廿壱年 十月廿一日
 

花押3
  

 現在「花押3」の初見は5号文書ということになっているが、5号文書も年未詳で日付が「七月廿八日」とあるのみである。6号文書には「天文廿壱 十月十二日」とあるが花押形は限定されていない。「花押3」を使用していてなおかつ年代表記もしっかりしているのは7号文書の「天文廿壱年 十月廿一日」となる。これらの5,6,7号文書が『信長文書の研究』の比定通り三通とも天文廿壱年の成立だとしても、2号文書が天文二十年、あるいは廿壱年に成立した可能性は十分に有り得ることになる。   
    
   
   
 勘十郎信勝(信行)の発給文書として、天文二十年九月廿日付の熱田神宮座主宛安堵状(『密蔵院文書』)がある。これは「備後守(信秀)并びに三郎(信長)の先判の旨に任せ」て笠覆寺領を安堵しているのだが、文面にもあるとおり、前年の天文十九年十二月廿三日には信長からほぼ同内容の判物が出ており、信長が信秀に代わり家督を継承する立場にあることを宣伝している。この直後となる天文二十年に弟の勘十郎信勝が更にそれを代わる安堵状を出すというのはどう解釈すべきなのであろうか。

情勢を考える

 さて、実際の花押形の違いについて考えてみると、「花押1、2」と「花押3」との間には相当な違いがみられる。通常、花押形を大きく変えるには何らかの情勢の変化が伴うことが多いのだが、この時期に信長を取り巻く情勢にどのような変化あったのだろうか?
 花押1、或いは花押2から花押3への移行期は天文19年〜21年と考えられるが、この間で最も大きな事柄はといえば何といっても信秀から信長への家督継承ということに尽きるのではないだろうか。信秀の死期については諸説あるが最も有力なのは天文二十一年説であろう。となると、花押形を大きく変えることになるのもこの年以降とみることができる。信秀が没したのは三月三日とも三月九日とも言われているが、何れにしても三月だとして、2号文書の日付は「四月十日」となっているので、成立年としては天文二十年とみるのが最も妥当ではないだろうか。
 

まとめ

 以上のようにこの2号文書の成立として、天文十八年〜二十一年までの何れも可能性があるように思われる。しかし、成立年を判定するにあたって、花押の変化を加味するなら信秀の没年を明確にする必要があるだろう。現状では信秀の没年として、天文二十一年没説が最も有力であろうと考えられるが、決定し得ない以上、現状においては数点の可能性について触れるだけで、断言せずに『織田信長文書』の年比定に従うものとする。
   

●参考/増訂 織田信長文書の研究 上巻(吉川弘文館)
   

     

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