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織田信長文書   <

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号文書>  天文廿一年七月十一日(1552)
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尾張津島社々僧虚空蔵坊宛判物写 『津島神社旧記』『張州雑志抄』二十七

一証文写            社僧
                 観音坊
虚空蔵坊今式寺領并先達事、
師匠任譲状之旨、申付候上ハ、
於未代不可有相違者也、仍状如件、
 
 天文廿一         三郎
    七月十一日      信長公御書判
    (三輿)
     見越
      空音坊



    
一証文写            社僧
                 観音坊       
虚空蔵坊 (*1)今式(*2)の寺領ならびに先達(*3)の事、
師匠(*4)任譲状(*5)の旨、申し付け候上は、
未代に於いても相違あるべからざるもの也、仍っての状件の如し、
 
 天文廿一          三郎(*6)
    七月十一日       信長公御書判
    (三輿)
     見越(*7)
      空音坊(*8)
        




一証文写            社僧
                 観音坊

虚空蔵坊が現在所有している寺の所領ならびに勧進に際しての先導権については、前権利者である師匠の譲り状の内容に従って保証する。その通り申し付けるからには、未来永劫末代に至るまで相違があってはならない。以上の通りである。
 
 天文廿一         三郎
    七月十一日      信長公御書判
    (三輿)
     見越
      空音坊
 


解説

                    
 この判物が出された約2ケ月前の天文廿一年五月十七日付の織田信秀の判物写(『津嶋神社旧記』)が残されていると『織田信長文書の研究』に記されている。
 しかし、信秀は天文廿一年三月に他界しているので一致しない。時期的な不一致(ズレ)に関しては、上記の信秀の判物写を確認しなければ何とも言えないが、この時期に父信秀から信長への権力委譲が行われたということがわかる。
 津嶋は信長の祖父・織田信定の時代から弾正忠家の重要な拠点でもあり、津嶋神社が寺領の保証のために信秀に代わって信長の判物を要したという点から、本願地では父子の継承に問題は起きていなかったらしい。

文責/ 研究員「ら」   
   

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【脚注】
  
 (* 1) 虚空蔵坊 / こくうぞうぼう
 
 津島神社の社僧の三輿山空音坊のこと。津島神社は愛知県津島市に鎮座し、津島天王社(牛頭天王社)ともいう。(↑戻る
 (* 2)  今式 / いましき
 
 現在知行している権利の意。(↑戻る
 (* 3)  先達 / せんだつ
 
 修験道の先導者のこと。峰入修行・祈祷・行事などを指導する山伏をいう。
 ここでは、もと三越村に白山権現社があり、越前の白山権現を勧進した。その際に、参詣人の先導を行う権利を指している。
 白山別院に寄進した鰐口が残されており、信長が平姓を名乗った初見とされている。(→287号文書
(↑戻る
 (* 4)  師匠 / ししょう
 
 先代の別当、若しくは責任者、または有権者の意であろう。(↑戻る
 (* 5)  譲状 / ゆずりじょう
 
 権利を譲渡することを明記した書面。
 寛政八年(1796)の津島神社の社僧としては実相院、明星院、観音院、宝寿院とがある。たぶん、虚空蔵坊(空音坊)の跡式を先代の師匠が譲り状を綴って提出したので、その内容を認め安堵したという内容であろう。(↑戻る
 (* 6)  三郎 / さぶろう
 
 信長の家(弾正忠家)では代々嫡男が三郎を名乗っているが、信長がその「三郎」を継承し名乗っていたという証しとなる文書である。(↑戻る
 (* 7)  見越(三輿) / みこし

 尾張津島の三越村。(↑戻る
 (* 8)  空音坊 / くうおんぼう

 津島神社の社僧の三輿山空音坊のこと。虚空蔵坊(空音坊)はのちに観音坊に合併されたのであろう。
(↑戻る

●参考/増訂 織田信長文書の研究  上巻(吉川弘文館)
 新版 角川 日本史辞典     (角川書店) 
広辞苑 第四版         (岩波書店) 
 新修名古屋市史 第二巻       (名古屋市) 




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