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織田信長文書   <

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号文書>  天文 十九年四月十日(1550)
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尾張賀藤左助宛判物写 『張州雑志抄』二十六
    加藤千代子氏所蔵。

   
  大瀬古之余五郎跡職座之事、永代買得之儀、
   
  委曲勘十郎理申候条、無別義申付候、然上者、
   
  於末代無相違可有智行者也、仍状如件、
   
    四月十日       信長(花押2)
   
     賀藤左助殿 
 



    
     *1   *2  *3  *4
  大瀬古余五郎 跡職の事、
     *5        *6  *7ことわり
  永代買得の儀、委曲勘十郎 理り申し候の条、

  別義無く申し付け候、然る上は、末代に於いても相違なく

  知行あるべきもの也、仍っての状件の如し、
                      *8
    四月十日         信長(花押2
   
     賀藤左助殿 
 




   
  大瀬古に余五郎が収益権を有していた座の跡目の事については、

  永久に買い取ったということで、詳細については勘十郎信勝の書状で

  理由を説明したとおりなので、問題なく諒承し信長の決定とする。

  然るうえは、末代までも間違いなく知行せよ。そのような訳で

  ここに記した通りである。

    四月十日              信長
   
     賀藤左助殿 
 

 


解説

                    
 この判物は一般に安堵状と呼ばれる類のもの。余五郎は、熱田の大瀬古に居住した者で姓は日比野といったらしい。(『張州雑志抄』)この余五郎はそこで商いをする権利を有していたが、何らかの理由で財産を没収されてしまった。その収益権の跡目を賀藤左助(*9)が勘十郎信勝(信長の弟)の取り次ぎで期限を決めずに買い取ったということがあった。
   
 この書状は、そのことを受けて改めて信長から安堵した形となっているので、賀(加)藤左助としては最初は勘十郎から座の権利を安堵して貰ったが、理由があって信長の安堵を必要としたということになるのだろうか。つまり、権利を保障する立場が勘十郎信勝から信長に移ったということかも知れない。もしかすると信勝と信長の家督争いに絡んだものの可能性も大きく大変興味深い。最終的に信長の安堵状を必要としたのは、結果として信長が信秀の家督を継いだからという解釈が妥当ではないだろうか。

文責/ 研究員「ら」   
   

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 【脚注】
            *
 (* 1) 大瀬古 /おおせこ

   
熱田八ケ村のうちの一つで、現在の名古屋市熱田区にある大瀬子町の旧称であると考えられる。(地名)
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 (* 2) 余五郎 /よごろう

   
 熱田に居住した者で、姓を日比野といったらしい。現在の名古屋市熱田区に
比々野町大瀬子町があることから、この辺りが余五郎の旧地だったと考えられる。また、この書状の内容から、余五郎はこの地で座の特権を持っていたが、後に没収されたことがわかる。日比野余五郎は、信長の家臣団にその名を発見できないことから、財産の没収に伴い没落したか、戦没し相続人が無かった為に改易となったのか、生き延びたが武功などが無かったのか、その何れなのか記録が無いため判断できない。(↑戻る

 (* 3) 跡職 /あとしき

   
被相続者の遺領、諸職、家禄。家督と財産。跡目。
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 (* 4) 座 /ざ

   
中世、本所に所属して特権(所役・関銭の免除、専売)を与えられた商工業者・交通運輸業者などの集団。
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 (* 5) 永代買得 /えいたいばいとく

   
封建時代に行われた土地売却の方式。期限付き売却である
年季売りに対するもので、永久に売り渡すこと。(↑戻る

 (* 6) 勘十郎 /かんじゅうろう

   
勘十郎は信長の同腹の弟
信勝のこと。一般には家系図から「信行」の名で知られているが、書状からは信行の実名を見い出すことはできない。詳しくは系譜研究室(labo-2)の「一族/兄弟・姉妹」の内、織田信勝の項へ。(↑戻る

 (* 7) 理り/ことわり

   
道理。条理。理由。もっともななこと。
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 (* 8) 花押2/かおう

   
 「花押2」としたのは、信長が使用した花押をその変化によって編年的に分類したものの中では2番目のの花押であることを意味する。現時点に於いて、現物の確認をしていない当研究所としては奥野高廣氏の『織田信長文書の研究』に従うことにする。
(↑戻る
         

この文書の成立年(天文十九年)に関して考える

・・・

花押2への私見

          

 (* 9)宛所の「賀(加)藤左助/ かとうさすけ

  
 熱田加藤氏は、源頼朝に仕えた御家人加藤景廉(かげかど)の子孫で、美濃岩村城主加藤氏の一族とも伝えられる。景廉の七世の子孫、図書助景政は、熱田加藤氏の実質的な始祖とみられるが、伊勢山田を経て熱田に移住したとの伝承がある。景政の四代後、景繁は、熱田の有力町民の一人として、永正年間(1504〜20)に片町に一寺院を建立したりもしている。景繁の二人の子(順光<東家>、延隆<西家>)の代に東西両家に分かれた。
 加藤氏は海上交易、金融業(質屋)などを営んだ豪商で、その利益で田畑・浜野・宅地を買い集めている。特に海浜部には一族の屋敷や寺院を建てたり、道路の整備など、織田信秀・信長父子との提携により熱田の発展に大いに寄与している。
 加藤氏の屋敷は、熱田海岸(港)を東西から挟み込むように並んでいたことから、東家、西家と呼ばれるようになったらしい。この2号文書では、熱田八ケ村のうちの一つである大瀬古の土地や商売の権利等を信長に安堵して貰っていることがわかる。文書の宛所となっている左助は西加藤家の祖である延隆の次男で元隆と名乗っている。(↑戻る

   


●参考/増訂 織田信長文書の研究 上巻(吉川弘文館)
新版 角川 日本史辞典    (角川書店) 
広辞苑 第四版        (岩波書店) 
新修 名古屋市史 第二巻      (名古屋市) 




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