| 【脚注】 |
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1) 宮 中 /きゅうちゅう |
神社の境内の意。当時は熱田神宮の境内、またその近隣周辺までも含めてそのように呼んでいた。
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2) 棟 別 /むね(な)べち |
棟別銭とも棟役ともいう。中世の公事の一つ。家屋の棟数別に10〜100文程度を賦課した。鎌倉後期には、朝廷が寺社や内裏の造営・修復などのため、臨時に特定の国郡または全国に課した。南北朝期には賦課の権限が室町幕府に移り、その重要な財源となったが、しだいに守護・戦国大名が独自に徴収する恒常的な課役となった。
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3) 勧 進 /かんじん |
本来は寺社の造営や修造や法会開催・写経などに際して、信者や有志を募ってその費用を調達したこと。慈善事業として勧進僧などが従事していたが、戦国期にはその形式のみが大名に利用され、政策として寺社造営のほか公共施設の建設に際して、仏との結縁の代償として一般からその費用が調達・奉納させされた。
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4) 奉公人 /ほうこうにん |
江戸時代であれば、武家奉公だけでなく、農民・職人・商人を問わず、一般に主家の家業・家職に従事し継続的に労務提供を行う契約を指し、隷属的・長期的な譜代奉公、債務等による質奉公、雇用に基づく年季奉公などがあったと考えられる。しかしこの時点では、下級武士一般(侍・中間・荒子)を奉公人とし、封建的な主従関係に於ける、主人への奉仕義務を負う従者のことを指す。
中間とは、最下層の武士である足軽と、非戦闘員で雑役に従事する小者の間の身分。中世一般では、公家や寺社の従者をも指した。荒子とは、雑役に従事した雑兵の一種で、荒仕事が原義で、最下層の兵として、戦場では土木や炊事などに従事したが、農民とは異なる身分。
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5) 足 弱 /あしよわ |
足を労することで夫役の別称となった「足役」、その足役としては弱小なものを指した総称であり、老人、幼児、婦女子などの力仕事には不向きな者のことを意味する。
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6)原典が摩滅もしくは虫喰いによって確認できなかった部分 |
『張州雑志』では「此間不分明」としている。原典が戦災で消失してしまっている現状では、確認をするのは厳しいように思われる。憶測は避けたいので、翻刻および訓み下しではそのまま●印を用い、字数は考慮していない。口語訳では、参考とした『織田信長文書の研究』の意訳をそのまま採用した。
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7) 譴責使 /けんせきし |
問責使ともいう。過失などを厳しくとがめ責める役目の者。問責とは、責任を問い責めるの意味。
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8) 執達 / しったつ |
書留文言として通常は「仍如件」や「仍状如件」があるが、この「執達」の場合は、上意を下の者へ伝達するという意味がある。この制札を掲げるにあたっては、信長の家(弾正忠または備後守家)の主筋にあたる守護家の斯波氏(義統)の意志に奉じているという考え方も成り立つようだ。若しくは、斯波氏ではなくその下の守護代織田達勝の意を受けてか、更には父信秀に代わって出しているとも取れる。信長の初見文書ということからすると、父信秀に代わってというのが妥当な解釈ではないかと思える。
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9) 藤原信長 /ふじわらのぶなが |
織田信長が文書に於いて「藤原」姓を名乗っていたという事実を知ることのできる唯一のもの。この文書は信長文書としては初見のものであり、特に注目される。しかし、織田家の歴々においても、この藤原姓を名乗ることは珍しくなく、信長以前の織田家でも数名の者が藤原姓を名乗っていたことが知られている。しかし信長文書に於いては、信長が藤原姓を名乗るのはこれが最初で最後で、以後は一度も藤原を名乗っていない。
断定するには問題があるが、最近の大方の評価では、信長の先祖が藤原氏であった可能性は極めて低いようであり、信長自身、文書発給がまだ不慣れな状況下に於いて、単純に先祖に習って名乗っただけという可能性も大いに感じられる。
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10) 花押1 /かおう |
「花押1」としたのは、信長が使用した花押をその変化によって編年的に分類したものの中では最初のもの、つまり信長が一番最初に使った花押であることを意味している。この番号によって、その文書の成立を比定したり、あるいは大凡の年代を推定できる。奥野高廣氏の『織田信長文書の研究』では、信長の花押は全部で14種に分類されている。現時点に於いて現物の確認をしていない当研究所としては奥野氏に従うことにする。また、この「花押1」が使用されているのは、この1号文書と3号文書の二通にだけです。だから、花押1の成立年代は、花押3が出現する5号文書の天文二十一年七月以前に限定されることになるだろうか。形状としては、父信秀の使用した花押にもよく似ており、足利家のものを模倣したものといえるのではないだろうか。
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11) 熱田八ケ村 /あつたはちかそん |
「市場、田中、神戸、今道・宿、大瀬子、中瀬、東脇、須賀」という八カ所を総称してこう呼んだ。同時期の清洲城下の町家が二七二九軒あったのに次いで約二千軒の家数を数えた。当時は、現在よりも海岸線が近くまで迫っていたようで港の関係者等も多く住んでいたらしい。代表的な熱田の海上交易商人として熱田加藤氏がある。
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| <改行位置について> |
★翻刻文に於いては『増訂 織田信長文書の研究』(吉川弘文館)上巻巻頭の扉写真(謄写版写真)により改行位置が確認できたので『(└)』を文中に挿入し明確な改行位置を示した。
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●参考/増訂 織田信長文書の研究 上巻(吉川弘文館)
新版 角川 日本史辞典 (角川書店)
広辞苑 第四版 (岩波書店)
新修 名古屋市史 第二巻 (名古屋市)
『加藤家史』、『駒井日記』
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