| 【脚注】 |
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| (* 1)
河尻与三郎 /かわじり・よさぶろう |
河尻秀隆の一族の者と考えられるが定かではない。秀隆の初名が「与四郎」であり、秀隆が信長の命によって清洲守護代家の老臣・河尻与一郎の跡を継いだと『美濃国諸家系譜』の「河尻氏系図」に書かれており、この二人が一族であった可能性を汲んで考えると、「与一郎、与四郎、与三郎」という名前の類似性からも、与三郎が彼らの一族であった可能性は非常に高いと言える。『織田信長文書の研究』で奥野高廣氏は、この与三郎を「後の河尻秀隆かその父」としたうえで、清洲守護代織田家の旧臣と推測している。
この文書では、この河尻与三郎の知行のうちから十五貫文を坂井文助に与えているわけで、河尻秀隆が、天文十年代の信長父信秀時代から弾正忠家に仕えて、弘治、永禄と信長の馬廻りとして活躍しているところからすれば、自らの馬廻りで活躍する秀隆の家の所領を坂井文助に分与するのは合点がいかない。となれば、この河尻与三郎が河尻秀隆またはその父と同一人物とすることは難しいように思う。考えられるとすれば、清洲守護代家の老臣・河尻与一郎の子が与三郎ではないだろうか。秀隆(与四郎)は、その一族ではあるが、与一郎の弟かその子になるのではないだろうか。清洲城攻略に手柄のあった坂井文助への恩賞として扶助した可能性は奥野高廣氏が指摘する通りとして、与三郎の残りの所領を河尻秀隆に与えたとすれば先に記した『美濃国諸家系譜』の「河尻氏系図」に書かれた内容にも反せず納得がいくと考えられる。
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| (* 2)
斎藤 /さいとう |
この「斎藤」が誰なのかまったく判明しない。一般に斎藤といえば美濃の斎藤氏の一族を連想するが、この弘治年間で信長の周りで特定できる者はまったくわからない。やはり美濃の斎藤氏の関連の者だろうか。この文書に登場する河尻与三郎の知行分(十五貫文)とくらべても斎藤の分は僅かに四貫文分だけとなっており小身の者なのだろうか。清洲守護代家の老臣である河尻与三郎の領地を論功行賞として宛っているのと同様に、そこへ名前があることを考えれば、この斎藤も清洲織田家の旧臣と考えることもできる。
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| (* 3)
扶助 /ふじょ |
知行のこと。
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| (* 4)
弘治元 /こうじ |
天文二十四(1555)年十月二十三日に改元され「弘治」となった。この年、信長は22歳。干支は乙卯。
同じ1555年でも「弘治元年」と明記された信長発給文書はこの一通のみであり、つづく弘治二年の文書は発見されていない。天文二十四年四月に信長は、叔父信光と共謀して清洲城を織田広信から奪うという大きな変化があったにもかかわらず、文書の発給が少なかったとは考え難く、単に現代まで残らなかっただけかも知れない。
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| (* 5)
花押6 /かおう6 |
信長の発給文書の第18号文書(『をはた殿宛書状』)が花押6の初見であり、この第20号文書までの僅かに3通のみに記されている。(→文書影印を確認する)
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| (* 6)
坂井文助 /さかい・ぶんすけ |
信長の尾張在國時代からの奉行衆で、特に尾張美濃の道路修築や橋修繕など土木建築系の作業の奉行を他三名と共同でこなしていることで知られる。信長の印判状として初見となる77号文書(『尾張坂井利貞宛朱印状』)の宛主として名が見られ、他に坂井文助宛の信長発給文書は全部で5通ある。(詳細→武将リスト)
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●参考/増訂 織田信長文書の研究 上巻(吉川弘文館)
新版 角川 日本史辞典 (角川書店)
広辞苑 第四版 (岩波書店)
織田信長家臣人名辞典 (吉川弘文館)
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