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織田信長文書   <

287
号文書>  元亀2年6月吉日(1571)
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越前白山別山権現鰐口 『越前大野郡石徹白村観音堂鰐口』
   関連→参考文書NO.2

(表銘)
「奉寄進御鰐口白山別山大行事権現御宝前
       元亀二年辛未六月吉日  」

(裏銘)       (長頼)
「信心大施主平信長 奉行菅谷九右衛門尉
                   敬白
 祈願白山社家石徹白源三郎胤弘      」

 




(表銘)  *1   *2
「奉 寄 進 御 鰐 口 白 山 別 山 大 行 事 権 現 御 宝 前
         元 亀 二 年 辛 未 六 月 吉 日   」

(裏銘)    *3      *4(長頼)
「信 心 大 施 主 平 信 長  奉 行 菅 谷 九 右 衛 門 尉
                         敬 白
 祈 願 白 山 社 家 石 徹 白 源 三 郎 胤 弘        」

 

 


解説

                    

 この文書は、織田信長が平氏を名乗ったものとしては初見とされている。
文書といっても
鰐口であり書面に書かれたものではないが、ここではこういった鰐口に刻まれた銘文も信長文書として扱うことにしている。
 
裏銘に「奉行菅谷九右衛門尉」と記され、また同じ日付で出された菅谷九右衛門尉長頼の禁制()を見れば解るとおり、これを寄進するにあたっては奉行である菅谷が担当したことが解る。更に、この鰐口が、信長の膝元である尾張、美濃や京ではなく越前の白山別山に寄進されたものというところにこの名乗りの意味が込められているのではないかと思われる。
 というのは、将軍足利義昭の上洛命令に従わない越前朝倉氏を将軍の名代(代理人)として懲らしめることにあった当初の越前攻めの正当性が、将軍義昭との確執もあって、次第に悪しき将軍足利義昭(源氏)に代わる平氏の信長が各地の大名に命令を行うものという、源平交代思想を元にした信長による自己正当性を主張する意識へ変わっていったのではないかと受け取れる。またはそれを当地に宣伝する意図が背景にあるようにも思われる。

 信長の出自が平氏であるとする平氏説源平交代思想については、lab-2(系譜研究室)の「出自」に纏めているので参照されたい。(2002.3.16)


文責/ 研究員「ら」    
   

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 【脚注】
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 (* 1) 鰐 口 / わにぐち

   
鋳銅製で、神社・寺院の堂前の軒下にかけ、太い紐で打ち鳴らす鐘のようなもの。
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 (* 2) 白 山 別 山 / しろやまべつさん

   
白山は越前・加賀・越中・飛騨・美濃にまたがる大山である。その最高峰釈迦嶽の南約12粁に別山がある。標高2330m。別山に別山宮がある。白山権現三所のうちの一つで、小白山権現は、日本全土にわたり厚い信仰を集めている。
 元は、尾張三越村に白山権現社があったが、後に越前に白山権現が勧進されている。越前への参詣人の先導を行う権利(先達)を安堵するという内容の文書(→第4号文書)もある。
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 (* 3) 平 信 長 / たいらの のぶなが

   
信長は、信長文書の初見とされる1号文書では、「藤原信長」と署名していたが、この鰐口に刻まれた銘文では平姓を名乗っている。信長が平姓を名乗ったものとしてはこれが初見とされる。
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 (* 4) 菅 谷 九 右 衛 門 尉(長 頼 / すがや きゅううえもんのじょう(ながより)
   
この鰐口の寄進を執り行った奉行人は、菅谷九右衛門尉長頼であることを示している。
菅谷九右衛門尉は同日の元亀二辛未六月日付けで「越前白山中居社」宛に「仍下制件如」として禁制を出している。(→参考文書)
信長の命を受け、鰐口を寄進したうえで同社に制札を与えたのであろう。
長頼は、元亀元年時の身分は馬廻であるが、将軍足利義昭への使を務めたり、志賀の陣中を来訪した山科言継を取り次いだりもしており、信長の側近として活躍していたことが伺える。また、菅谷が「長 頼」を名乗ったのは先に示した禁制(参考文書)が初見である。
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●参考/増訂 織田信長文書の研究 上巻(吉川弘文館)
新版 角川 日本史辞典    (角川書店) 
広辞苑 第四版        (岩波書店) 
新修名古屋市史第二巻     (名古屋市) 
織田信長家臣人名辞典     (吉川弘文館)




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