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織田信長文書   <

268
号文書>  元亀三年正月二日(1572)
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木下秀吉宛朱印状 史料編纂所所蔵『織田信長朱印状』旧神田孝平氏所蔵
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従北国大坂へ通路之
諸商人、其外往
還之者之事、
姉川より朝妻迄之
間、海陸共以堅可
相留候、若下々用
捨候者有之ハ、聞
立可成敗之状如件、
  正月二日     信長(朱印2)
    木下藤吉郎とのへ



*1     *2 
北国より大坂へ通路の
諸商人、其の外 往還
の者の事、
*3   *4
姉川より朝妻迄の間、
*5
陸 共に以って堅く
  *6         *7
相留むべく候、もし下々 
*8
用捨候者有らば、
 *9
聞立てて、成敗すべきの状件の如し、
     *10                 *11
  (元亀三年)正月二日     信長(朱印2
       *12
     木下藤吉郎とのへ


北国より大坂へ通路の諸商人、
其の外往還の者の事、
姉川より朝妻迄の間、
海陸共に以って堅く
相留むべく候、もし下々
用捨候者有之ハ、
聞立てて、成敗すべきの状件の如し、
  (元亀三年)正月二日     信長(朱印)
     木下藤吉郎とのへ
 


解説

                    

 これは、いわゆる朱印状というもの。
信長の文書の内この朱印状とよばれる文書は全部で***通ある。
また他に黒印状もあり、併せて印判状としてリストを作成している(list-4)ので参考にされたい。
 また、この文書は朝倉・浅井の連合軍に加え、大坂の本願寺が連携をみせた時期に、その両者の間の交通路を遮断を命じた軍令書である。年代の比定に於いては、当初は
興福寺大乗院門跡の尋憲の日記である『尋憲記』の日付から元亀2年のものとされてきたが、最近になって成立は元亀3年が妥当であろうと言う見解が示されるようになった。当研究所では、この案を指示し元亀三年に比定をし、分類することとした。

文責/ 研究員「ら」    
(2002.4.16)           
   

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 【脚注】
     
    *本文書は影印が確認できたため翻刻」にあたっては、改行位置をも忠実に復元した
 
 (* 1) 北国 / ほっこく 

   
 ここでいうのは北陸方面という意味で、対照としているのは越前朝倉氏・江北の浅井氏であることは明白。
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 (* 2) 大坂 / おおさか

   
単純に地名を書いているが、ここでは大坂の「石山本願寺」を指しているとみてよいだろう。この朱印状自体が、北陸の朝倉氏と大坂の本願寺が連携して信長に対抗する姿勢を示していることに対し、その分断を画策したものである。
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 (* 3) 姉川 / あねかわ

   
江北浅井氏の居城小谷城のお膝元横山あたりに発源し、東浅井郡びわ町で琵琶湖に注ぐ川。1570年に浅井・朝倉の同盟軍と織田・徳川連合軍との合戦が行われたことでも有名。

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 (* 4) 朝妻 / あさづま

   
琵琶湖のと右岸にあった湊。今は、滋賀県坂田郡米原町朝妻筑摩。古代から、この朝妻と大津を結ぶ湖上交通が盛んに利用されており、琵琶湖の東岸は北陸や東国の街道が繋がる要衝でもあり、そこから京坂への商人・旅客の多くが利用していた。
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 (* 5)  / うみ

   
ここでいう「海」は本来の海を示すものではなく、琵琶湖という意味で、陸路にたいしての水路という意味合い、そしてここでは琵琶湖に通ずる姉川の河川水運を指していると考えられる。当然、次の「陸」は通常の陸路を意味し、琵琶湖の
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 (* 6) 相留むべく / あいとむべく

 
「留める」とは本来、事物の動き・続きをやめさせる、進まないようにする、やめさせる、禁ずる、という意味で、ここでは交通を止めるということであろう。更に「相」とあるので双方向ということであろう。北国から大坂も、大坂から北国も、その行き来往来のすべてを阻止するということで、通行封鎖ということを意味する。そこへ助動詞の「可し」の連用形である「べく」が続き、「〜するように」という意味が加味され「通行封鎖をするように」となる。
  
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 (* 7) 下々 / しもじも

 
 身分の低い者達。一般の庶民。
  
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 (* 8) 用捨 / ようしゃ

 
用いることと捨てること。取拾。転じて、善悪などの判断を下すこと。または「容赦」と書き、許容すること。
ここでは、通行の封鎖をせよという命に対し、応じたり応じなかったりすることという意となる。
  庶民の中に命に従わない者が有る場合には、聞き立てて(よくその話を聞いて)、
  成敗(取りはからい、裁断し、処罰)をしなさい。・・・との意であろう。

  
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 (* 9) 聞立て / ききたて

 
特に聞こうとする。尋ね求める。聞き出す。
  
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 (* 10) 元亀三年 / げんき3ねん

 
この文書の年代比定は、以前は元亀2年のものとされていた。その根拠として、内閣文庫に所蔵されている興福寺大乗院門跡の尋憲の日記である『尋憲記』の元亀元年十二月六日の条に、

一 新六京罷帰候、越州路自信長并武家よりも被成御下知、堅被相留候、
  坂本迄は成候へ共、其前一向不叶候、若サ越も若州迄ハ成候へ共、
  其前不叶、一段ときふく相留由候間、無了簡罷帰候、

とあり、これを訓み下すと

一 新六が京都より罷り帰り候、越州路は信長より並びに武家よりも御下知をなされ、堅く相留られ候、
  坂本までは成り候へども、その前は一向に叶わず候、若狭越えも若州迄は成り候へども、
  その前は叶わず、一段ときつく相留むるの由に候間、了簡なく罷り帰り候、

となる。つまり、信長に加えて武家(将軍・足利義昭)からも命令が出されており、堅く通行止めとなっている様がわかる。
この文書の日付が「正月二日」であることから、『尋憲記』の元亀元年十二月六日の時点で北陸への交通が遮断されている内容と一致するため、当初この文書の年代比定が
元亀二年の正月二日とされていたのである。
 しかし、最近の研究によって木下藤吉郎が命じられたのは、既に始まっていた通路止めの更なる強化が目的であることが解ってきた。すると『尋憲記』の元亀元年十二月六日からあまり日数を経ていない元亀二年よりも、むしろ翌年の元亀三年とみるのが妥当であろうという見解が出されるようになった。当研究所では、検討を重ねた結果、この文書の年代比定を
元亀三年とすることとした。
 
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 (* 11) 朱印2 / しゅいん2

 
朱印の分類は2型とされる。下に比較しやすいように並べてみた。

268号文書の朱印影印

朱印分類−2型

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 (* 12) 木下藤吉郎 / きのした・とうきちろう

 
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●参考/増訂 織田信長文書の研究 上巻(吉川弘文館)
新版 角川 日本史辞典    (角川書店) 
広辞苑 第四版        (岩波書店) 
織田信長家臣人名辞典     (吉川弘文館)




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