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上杉景勝
  天正10年12月2日(1580)
 

上杉景勝印状 重要文化財指定『中条家文書』
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知行之事
本領・新地共ニ
如亡父越前守代
不可有相違
者也、仍如件

天正十年 
  十二月二日  景勝(
印)

    中条一黒殿
 





知行の事、

 *1
本領・新地共に、

  *2 *3
亡き父 越前守の代の如く、


相違あるべからず


もの也、仍って件の如し


 天正十年     
*4
  十二月二日   景勝(朱印)

       *5 
     中条一黒殿



 
知行について、
本領・新地ともに
亡き父越前守の代と同様に
認める。以上の通りである。

天正十年 
  十二月二日  景勝(
印)

    中条一黒殿 

 


解説

 
 この文書は、上杉景勝が、家臣の中条一黒に与えた安堵状です。
中条一黒の父景泰は、1582(天正10)年6月魚津城(富山県魚津市)で、織田信長配下北国方面軍総司令官の柴田勝家を迎え撃ちますが、3日早朝、魚津城は落城し、中条越前守景泰は戦死してしまいました。
 この文書は、嫡男の一黒が父の家督を継ぎ、主人の上杉景勝 により領地を父・景泰の代と同様に安堵することを証明された安堵状なのです。

 この文書を見たとき、歴史の流れの哀れを感じずにはいられません。というのも、魚津城が落ち、中条景泰が亡くなった天正10年6月3日というのは、明智光秀によって京都・本能寺で織田信長が襲殺された「本能寺の変」の起こった僅かに一日後なのです。
 
もしもこの「本能寺の変」がもう少し早くに起こっていたならば、信長急死の影響から柴田勝家は慌てて北の庄まで兵を退いており、魚津城を落城させて中条景泰を討つこともなかったと思われるからです。

 信長が襲殺された「本能寺の変」は、明智光秀にとって、それ以外にない絶好の日ともいうべき6月2日未明に決行されました。しかし、僅かの差で中条景泰は、その時には既にこの世にない信長の命を受けた柴田勝家によって敗死しているのです。

 数十年、数百年、数千年という大きな時間の流れが様々な出来事を織りなして歴史を形成していきます。しかしほんの僅かな一日という時間の差が織りなすドラマもここにあると思わせてくれる文書だと思うのです。

    雷蔵(2002.4.16)


   
 【注】
            *
 (* 1) 本領・新地 / ほんりょう・しんち
   
本領というのは、以前からある本願地。代々受け継がれてきた私領地のこと。
新地というのは、新たに加増された領地のこと。
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 (* 2) 亡父 / なきちち(ぼうふ)
   
宛所の中条一黒の亡くなった父、つまり中条景泰のことです。
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 (* 3) 越前守 / えちぜんのかみ
   
これも
中条景泰の頭領名が「越前守」だったということを示している。
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 (* 4) 景勝 / かげかつ

   
 上杉景勝のこと。
 上杉景勝は、越後の龍上杉謙信の養子としてその後を継ぎ、米沢上杉氏の基礎を確立した人物です。彼は、謙信の甥で、初めは長尾姓でしたが、天正3年(1575)、上杉景勝の名乗りを与えられました。しかし謙信が死去すると、同じく謙信の養子で北条氏康を父とする上杉景虎との間で家督争いが起こります。景勝は、これに勝利し正式に謙信の後継者となりました。
 天正12年(1584)になり、天下が豊臣秀吉の手におさまるとこれに従い、以後、秀吉政権に協力体制をとります。小早川隆景の死後にはその代わりに五大老の一人として豊臣政権で重要な位置につきます。ところが、慶長3年(1598)秀吉が没すると、徳川家康と対立し、関ケ原の戦いのさいには 石田三成につき、敗北し、出羽米沢30万石に転封の憂き目をみました。これが米沢上杉氏の興りです。
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 (* 5) 中条一黒 / なかじょういっこく


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