菅谷九右衛門尉長頼 発給文書 <参考

S-2
号文書>    元亀二年六月日(1571)
 

 

 

参考−2 越前白山中居社宛菅谷長頼禁制案 『石徹白神社文書』

信長の平姓を名乗った初見文書(NO.287号文書)の参考文書。

   
   禁制                  白山中居神社境内
 
一、諸殺生之事、
一、山林草木伐採之事、
一、甲乙人乱入之事、
一、博奕之事
一、窃盗、附、放火之事、
右条々違犯之族於有之者、可被処厳科者也、仍下制如件、
 
                           菅谷九右衛門尉
  元亀二未辛六月日                   長頼書判



   禁制                  白山中居神社(*1)境内
 
一、殺生の事、
一、山林草木伐採の事、
一、甲乙人(*2)乱入之事、
一、博奕(*3)之事
一、窃盗、つけたり、放火之事、
右の条々違犯の族これ有るに於いては、厳科に処さ被れるべきもの也、よって下制(*4)件の如し、
 
                           菅谷九右衛門尉(*5)
  元亀二未辛六月日                   長頼書判



   
   白山中居神社境内に於いて以下に列挙することを禁止する
 
一、殺生する事、
一、白山中居神社の山林の草木を伐採する事、
一、人々が乱入する事、
一、博打をする事
一、窃盗に付け加えて、放火をする事、
右に列挙した各条文に違反した者がいた場合は、厳重な処罰に処さられるべきものである。以上、ここに制し下した通りである。
 
                           菅谷九右衛門尉
  元亀二未辛六月日                   長頼書判
   


                    
 この文書は、信長が初めて姓を名乗ったとされる鰐口が寄進された越前白山神社に出された禁制として参考文書とした。発給年もまったく同じ「元亀二未辛六月日」であり、禁制発給をした菅谷の当時の位置づけなどを考える上でも参考になる文書である。

文責/ 研究員「ら」   
   


 【注】
             *
 (* 1) 白山中居神社 / ?
 
越前大野郡石徹白村の白山権現社。
白山は越前・加賀・越中・飛騨・美濃にまたがる大山である。
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 (* 2) 甲乙人 / こうおつにん
 
 神社に属する以外の「人々」という意味であろう。
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 (* 3) 博奕 / ばくえき
 
 「
」には囲碁という意味もあるようであるが、ここでは「博(ばく)」ともあわせて使用されており、ギャンブルという意味であろう。乱暴狼藉や竹木伐採、放火、寄宿などの条目はよく見られるが、博打を禁止する内容というのが面白い。内容的に見ても、信長側から条文案を試考したのではなく、受給者である神社側から礼銭を添えて案文を提出して、この制札が出されたことの裏付けにもなるのではないかと考えられる。  
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 (* 4) 下制 / 
 
 単純に「下知」とならないのはどういう意味だろうか。
 この制札(禁制)の発給者としての銘には菅谷長頼の名があるものの、菅谷は信長の奉行人であり、信長の命によって越前の寺社への制札発給等ならびに使を働いていたものと考えられる。上位者の意を受けて下知する場合の「仍執達如件」というのがあるが、それに類似したものと見ても良いのだろうか。
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 (* 5) 菅谷九右衛門尉 / すがやきゅうえもん
 
 菅谷長頼。(
1555〜1582信長の側近の代表格である。
 主に奉行、使、取次ぎ、などを任務としており、合戦へ力働きとして名を連ねることもなく、また戦場での功名もまったく記録がない。従軍はしていても戦闘中はもっぱら信長の側に侍していて戦いへ参加することはなかったのであろう。若年時には、「御長」という幼名を使用していたらしく、一族ではないらしいが、織田の姓を下賜された
小豆坂七本槍の勇将、織田造酒佐の子という説もあり、『兼見卿記』や『言継卿記』にみられる「織田御長」は菅谷長頼のことのようである。
 この禁制に見られるように、元亀元年頃より志賀陣に従軍し、将軍義昭への使を務めたり、公家の取り次ぎなどを務め、朝倉の陣への使いもこなしている。
 また、天正年間になると東大寺の秘宝(香木)である
蘭奢待の切取りの奉行として、宿老の柴田勝家・佐久間信盛らと肩を並べている。更に天正4年頃より、信長の勢力版図が越前にまで及ぶようになると、織田一族の氏神とされる越前丹生郡織田大明神剣神社の担当者として府中三人衆(佐々成政、前田利家、不破光治)に指示を与えたりもしている。天正9年には能登の七尾城城代として派遣され活躍している。織田五奉行の一人に数えられた。天正10年、本能寺の変に際しては、本能寺に駆けつけることは叶わず、信長嫡子の信忠が籠もった二条御所に馳せ参じ、明智軍と戦い討死している。(↑戻る

●参考/増訂 織田信長文書の研究 上巻(吉川弘文館)
新版 角川 日本史辞典    (角川書店) 
広辞苑 第四版        (岩波書店)