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第8研究室【文化】趣味

信長


 

和 暦

日  付

開催場所

出典・備考

元号

(西暦年)

天正 10 1582 6 1 京都本能寺 爛柯堂棋話』 

信長

 初代本因坊算砂

 1578年、織田信長は日蓮宗の日海という僧侶を呼んで五子置いて何度も繰り返し対局しましたが、結局一度も勝てず、信長は日海を「名人」と讃えたそうです。これが名人の名前の始まりと云われています。

 日海は後の本因坊算砂(ほんいんぼう・さんさ)(1559-1623)です。日海は1559年に生まれ。京都・長者町の加納与助の子。本名を加納與三郎(与三郎)といいました。8歳の時に京都寂光寺の仏門に入り、日海と称し、寂光寺の七つの塔頭の一つ本因坊に寄宿していたので、後に本因坊算砂と呼ばれるようになります。

 <略歴>
 1585年、秀吉が催した碁会で優勝し、朱印状を与えられた。
 1603年、家康に仕えて江戸へ向かう際、
本因坊算砂と改名。
 1612年、扶持を授けられ、事実上、プロ棋士第一号となった。

 幕府の囲碁・将棋奨励策の一環で、囲碁界最高の権限を持つ初代
碁所(ごどころ)に就いたほか、四つの家元の一つ、本因坊家の始祖となった。権大僧にも就いたとされる。

 本因坊家は1939年、二十一世秀哉の引退により断絶。その後、本因坊はタイトル戦の名称となった。

  最近になってマンガ「ヒカルの碁」には   
 
本因坊秀策(ほんいんぼう・しゅうさく)が登場   
 し話題となっているが、彼もこの本因坊家の人。


 ← 本因坊秀策の肖像画(呉市入船山記念館蔵)

 不吉な手「三劫(サンコウ)

 1582年(天正10年)、6月1日の深夜遅くまで、日海は信長、信忠父子の御前で日蓮宗僧侶の利玄林利玄鹿塩利賢の二説がある)と囲碁を打ちました。ところが、全く同じ形で相手の石を挟んで取ることを交互に繰り返すのを禁止した劫(コウ)という手がありますが、同じ局面でこのを三度繰り返す大変珍しい囲碁の形(三劫(サンコウ))が起こります。
 結局これは「無勝負」となりましたが、その直後に
明智光秀が信長に謀叛を起こして弑逆した(本能寺の変)ことから、この決まり手を不吉の前兆とするようになりました。


   同じ形の繰り返しになってしまうような
    取り返しになるのを禁止した手。

信長の御前試合での一局と伝わる棋譜が残されているが、そこには、中盤の128手までが記録されている。しかし、三劫(サンコウ)の兆しは見られない。おそらく残されている棋譜は、この有名な「三劫(サンコウ)の一局」ではなく、同じ日にあった別の対局とみられる。


 上記に示した天正十年(1582)六月一日に信長が囲碁に関わっていたという証しが『爛柯堂棋話』の記述にみえるので下に示します。この日は言わずとも知れた本能寺の変の前日にあたります。

拝見の衆、奇異の事に思いける

江戸後期に家元の林元美が著したとされる爛柯(らんか)堂棋話にはそう記されており、本因坊算砂と利玄が信長の御前で碁を打った際、珍しい「三劫」という手となり、


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