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第8研究室

文化】趣味

茶の湯
 茶の湯前史

 

茶の湯前史


 日本では、植物としての茶の木が伝来して栽培されるよりはるか以前、遣唐使として中国に渡った僧侶達によって喫茶の習慣がもたらされ、禅宗寺院において茶礼として定着していった。しかし時代が下って南北朝の頃になると、きわめて遊技性のたかい闘茶が盛んとなり、一般へも次第に喫茶というものが普及していったのである。
 また、室町期には
淋汗茶の湯も登場して享楽性も加味された。 東山文化が花開き、書院空間における連歌や立花などの遊芸が次第に整いはじめると、同時に茶の湯も洗練さを加えて様式化していった。
 こうした様式化を推進したのは、将軍の近くで雑務を取り仕切る同朋衆のひとり
能阿弥で、唐物と呼ばれる中国の茶道具の目利きに卓越し、茶の湯の発展に寄与した。しかし、茶室という専用の空間はいまだ出現せず、茶を点てる場所と喫茶する場所はいぜん分離していた。 精神性を獲得するために必要な四畳半茶室の誕生は、村田珠光の出現を待たねばならないのである。


寺院の茶礼

 日本に於いては栄西(えいさい)による抹茶法伝来が契機となり、次第に喫茶への関心が強くなっていったこと、またこの時点で茶の薬用効果=茶徳の面と、儀礼化の方向に分かれていったことは別項(→薬用のお茶)に述べたが、儀礼の茶はもっぱら禅宗の寺院において確立したようである。
 鎌倉時代初期に栄西に師事し、その後渡宋して禅宗の一派である曹洞宗を開いた
道元は、修行生活の一部として喫茶、行茶、大座茶湯(だいざさとう)などの茶礼を制定した。また自らも喫茶を愛好し、中国から漢作の茶入れを持ち帰っている。ちなみにこの茶入れは、唐物としてわが国に伝来した最も古い物という。 また、筑前(福岡県)の崇福寺を開山した大応国師も中国から茶道具の台子や茶典を持ち帰り、茶儀を広めるのに役立ったといわれる。 こうした例から推察できることは、寺院における喫茶儀礼が中国から輸入され、次第に茶礼成立の動機を作っていったことであろう。

闘茶の流行

 闘茶というのは南北朝の頃に流行したもので、一定の場所に集まって茶の「本非(ほんぴ)」を当てる遊技である。本とは栂尾(とがのお)産の茶のことを指し、非とはその他の土地でとれた茶のことである。またなぜ栂尾かといえば、栄西の弟子である明恵上人は、京都・栂尾の高山寺の住職であったが、ここで茶の栽培に成功し、それがきわめて良質であったために「本茶」と呼ばれるようになったからである。
 さて『喫茶往来』という文献を見ると、当時の闘茶の様子が詳しく書かれている。
 茶室は「喫茶の亭」といい、二階建てである。四方に窓があり、室内は明るい。周囲には庭があって地面に白砂が敷かれている。金閣、銀閣、高台寺の時雨亭などもこの系統の茶亭であったと推測されている。 まず客が来るとはじめに酒を三献、次に索麺で茶を一杯、それから山海の珍味を出して飯を奨め、つづいて菓子などでもてなす。このあと庭を眺めたり、木陰で休息をとったりする。やがて茶会の開始にともない二階へ上がるが、内部の壁には様々な仏画の類が掛けられ、堆朱などの工芸品も多い。すべて中国からの渡来物である。また、賞品として提供される珍奇な品々が色々と並べられている。
 いよいよ茶会が始まる。亭主や客の服装はみな金襴緞子の衣や袈裟をまとい、客は豹の皮に坐って脇息に寄りかかっている。豪華というか、かなり異様な光景と言わざるを得ない。闘茶は四種十服を原則として争われた。具体的な方法は割愛するが、要するに四種類の茶を十回ずつ飲んで茶の本非を区別し、より多く正解であった者が勝ちとなる。今で言うところの「利き酒」のようなものである。なお、闘茶のやり方は
利休の時代に改革されて茶かぶきといわれたが、三種五服の茶あわせと称して今日に伝えられて、千家七事式のひとつに数えられている。
 南北朝の内乱はバサラ大名を輩出したように、伝統的な価値観と新しい人間像が鬩ぎ合った転換期であった。茶を飲んで勝負を競う闘茶は、こうした新時代を象徴する実力主義のきわめて感覚的な芸能といえるのかも知れない。

闘茶から淋汗茶の湯へ

 南北朝時代の闘茶も、足利義満の「北山文化」の時代になると茶室や茶会の趣向も次第に和風化してくる。喫茶の亭と呼ばれた茶室も、この頃は「会所」と呼ばれた。これは歌合わせや連歌の会所の転化といえよう。道具の飾り付けはそう変化ないが、『古今和歌集』や『和漢朗詠集』の趣向をとり入れた大変風雅な闘茶であった。また、公家の茶寄り合いでは、茶の本非を当てることを目的としない、ささやかな茶事が開かれた。
 一方、室町中期になると、奈良の興福寺大乗院では
淋汗茶の湯が催された。淋汗(林間とも書く)とは、汗を流す程度の軽い入浴のことで、風呂上がりの客に茶を勧めるという趣向のものである。風呂場に屏風をたて、絵や香炉・花瓶で飾り立て、茶席には掛け字を二幅掛け、花を飾った。客が風呂からあがると闘茶がはじまり、点心には果物と素麺が出された。男女混浴でしかも賭け事でもある闘茶が寺院で行なわれたうえ、これを見物するひとびとが遠方から弁当持参で集まったというから、なんともあきれた話である。
 『経覚私要抄』という書物には淋汗の記事が多いが、茶の湯だけでなく風呂を楽しみながら連歌会や生け花の前身である立花も開催されたとあり、そこに流れるものは当時の開放的な芸能と酒の饗宴であり、
遊びの精神であるといえよう。

 自由奔放ともいえる闘茶の会が、室町中期の「東山文化」の時代になると、今日の茶会のような静寂ではあるが形式的なものになってゆく。その理由は、貴族の建築であった書院造りが住宅として普及し、会所で催されていた茶会が書院の広間で行われるようになったからであろう。飾りも会所飾りから書院飾りというものに変化した。さらに、台子に茶器を飾りつけて茶を点てる方法も考案された。
 なお、書院飾りは南北朝時代の
佐々木導誉から始まったという。『太平記』によれば、導誉が南朝方の軍勢に攻められて都落ちするとき、茶道具一式を飾りつけ、寄せての将に一献をすすめたことがその始まりというのである。本尊・脇絵・花瓶・香炉などの茶具、また王羲之の草書の偈と韓退之の文(ふみ)を対幅にしたもので、これが「書院七所飾り」のルーツである。

 さて、書院茶の時期には専用の茶室というものはなかった。書院の部屋は
連歌といった文芸・芸能共通の場であり、したがってそこで茶会が催されたとしても、専用の茶室ではない。ましてや後年の茶室のように炉も切られていなかった。つまり、初期の茶の湯である書院茶では、「点茶する場所」と「喫茶する場所」とが分離しているのが特徴といえる。
 足利義政の東山山荘には「茶湯の間」と呼ばれる点茶所があったが、そこで同朋衆の手によって点てられた茶が、ほかの部屋へ運ばれていたのである。

栄西茶の伝来

 茶の歴史を語るうえで常にその前史に登場する人物は
栄西(1141年〜1215年)であろう。
 宋に渡り、日本に茶を移入して『喫茶養生記』を著したことで知られる臨済宗の僧である。栄西は、実は宋に2回行っているのであるが、茶を伝えたのは2度目の時とされている。ちょうど平氏が滅び、源頼朝によって鎌倉幕府が誕生した頃のことである。帰国に際して、肥前(長崎県)平戸島の葦浦に上陸、この地に茶を植えたという。持ち帰ったのは実ではなく、茶の若木ではないかという説もあり、従来の実を持ち帰ったという説とのあいだに相違がある。しかし以上のようなことから、日本に茶を招来したのは栄西、というのが従来の定説となっている。
 だが、栄西の時代より400年前の平安時代、すでに飲茶の風を伝えたのが入唐後に帰国した
最澄空海といった留学僧たちであることを忘れてはならないだろう。なかには唐に滞在すること30年近い僧もおり、その間茶を日常的に飲んでいたことは想像に難くない。実際、帰国した永忠という僧が嵯峨天皇に茶を献じたことが『日本後記』にも記されている。また、当時はとくに唐風文化が高揚した時期でもあり、(日本で詠われた)漢詩にもしばしば茶が詠い込まれている。しかし問題なのは、彼ら帰国僧が茶を持ち帰ったか否か、ということであろう。少なくとも携帯に便利で保存もきく「製品としての茶」を携えてきたことはほぼ間違いないであろうが、実や木に関しては確たる証拠はない。なお、当時の茶は「団茶」といい、今日茶の湯で用いる「抹茶」ではない。後者は、栄西が茶の実(木)とともに日本にもたらしたとされている。

 そして、嵯峨天皇が永忠から茶を献じられた2ヶ月後、畿内・播磨などの国々に茶を植えることを命じているのである。それが実なのか、木なのか、またいずれにしろそれらの素材はどこでどうしたのか、一切不明である。もし、自前のものであればすでに日本には自生した茶の木があったことになり、謎は深まるばかりである。それ故、最澄が比叡山麓の坂本に唐から持ち帰った茶を植えたとされる「日吉茶園」の話も、あるいはたんなる伝承といえないのかも知れない。

能阿弥茶の湯

 足利義教・義政の同朋衆であった
能阿弥は、茶道の成立にきわめて大きな足跡を残した大茶人であるが、また同時に連歌に秀で、立花や水墨画の名人としても知られる。唐物目利きとして将軍義満のコレクション「東山御物(ひがしやまごぶつ)」を制定したことでも有名である。 茶道における能阿弥の功績の第一は、書院飾りを編み出したことであろう。もともと中国式の茶室で行なっていた喫茶の法を、日本風の書院造りの座敷にふさわしいものに形を整えたのであるが、以下にその具体例を挙げてみよう。

[床の間]
掛け物は三幅対で、その前に三具足(香炉、花瓶、燭台)を置く。香炉には香を焚き、花瓶には花を立て、燭台に灯をともす。

[違い棚]
上の段には香合、茶入れ、天目茶碗、湯瓶を置き、下の段には食籠(じきろう)、盆石を置く。

[書院窓]
窓に面して机(き)を置き、その上に硯、文鎮など文房具を飾る。

 まだこの他にも色々あるが、大体の様子がこれでわかるであろう。 能阿弥の功績として次に挙げられることは、台子(だいす)飾りの方法を制定したことである。そもそも台子とは仏様にお茶をさしあげる場合に使用したものである。もともと仏具であるため寺でしか用いなかったが、能阿弥は将軍の茶席で初めて台子一式を使う方法を考案したのである。後世これを「三種極真(さんしゅごくしん)の台子飾り」と呼んでいるが、現在の献茶式、台子の点前で飾っているものと同様である。
 また、能阿弥は台子の点前をいろいろ研究する過程でさ様々な礼法も考案した。元来、武家の出身であった能阿弥(中尾真能といった。その一字「能」をとって能阿弥と名乗る)は、武家の礼法である
小笠原流を取り入れ、なかでも柄杓の扱い方は弓の操方から考案されたといわれる。そのほか茶席での服装のきまりや歩行のさいに能の仕舞いをとり入れるなど、能阿弥によって様々な工夫・改良・発明がなされたのである。


解  説
 闘茶 15世紀の「祭礼草紙」から。

 室町中期に広く行なわれたもので、客に軽い入浴をすすめたあと、茶の種類を当てる闘茶という遊技性の高い茶の湯が行なわれた。風呂場や茶席はいろいろ装飾がほどこされ、豪華な賞品や飲食物も用意されていた。
 同朋衆

 室町時代の書院茶を考えるときに欠かせないのが、将軍に近侍して雑務にあたった同朋衆(どうぼうしゅう)の存在である。そのもとを辿ると、鎌倉時代末期から南北朝にかけて武将に同行した時宗の僧(=時衆)、つまり従軍僧に行き着く。従軍の主な目的は武将の最期にあたってその菩提を弔うためと、負傷したものを治療することであった。鎌倉幕府が楠木正成を千早城に攻めたとき、従う時衆300人という記録がある。こうした従軍僧の中には、連歌や舞いやそのほか多芸の持ち主がいて、戦いの合間に彼らの才能が遺憾なく発揮される場面もあった。
 同朋衆は、こうした前史を引き継いで室町初期に幕府の職制に次第に組み込まれ、やがて将軍の近くにいて芸事をはじめ、もろもろの雑務を担当するようになった。同朋の名の由来は、「童坊」あるいは宗教的な意味がより強い「同行同朋」からきたものといわれる。
 また注目すべきは、必ず「阿弥」号を有していることである(阿弥号は時衆の独占物ではないが、同朋衆は必ず阿弥号を持っていた。またその由来は「南無阿弥陀仏」の中二文字をとったといわれる)。毎阿弥、相阿弥、能阿弥、芸阿弥をはじめ、後世に名を残した者は枚挙にいとまがない。同朋衆はいろいろな分野に存在したが、茶に関係した者を「茶同朋」といった。また、本来は室町幕府の職制の一つであったが、信長の側近として本能寺でともに討ち死にした針阿弥、秀吉の茶事に奉仕した友阿弥といった、武将お抱えの同朋衆もいた。

同朋衆では、猿楽の音阿弥、作庭の善阿弥、唐物奉行を担当した能阿弥・芸阿弥・相阿弥、香、茶の千阿弥、立花の立阿弥などがおり、東山文化で果たした役割は大きい。なかでも唐物目利きとして有名な能阿弥は、歴代足利将軍家が蒐集した唐物を整理分類し、いわゆる「東山御物」を選定したことで知られる。