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第8研究室

文化】趣味

茶の湯
 真行草の茶

 

真行草の茶


真・行・草の茶

 茶のスタイルを「真行草」と言い換えることがある。本来はこの「真・行・草」という三つの文字は、書道における書体の類型を示すものであるが、しばしば日本人の美意識の表現として用いられることがある。

 中国・東晋時代に書道の基礎を作った王羲之は、古代の篆書(てんしょ)、隷書(れいしょ)に対して真(楷書)・行・草の三書体を確立したといわれる。
 やがて
格式が高く整ったその対極に位置する破格の両者の中間に位置するというイメージが様々なジャンルでも応用されるようになったのである。特に絵画表現、庭や建築のデザインなどに用いられることが多く、また茶の世界でも同様である。

 しかし注目すべきは、中国に於いては、がもっとも正統なる格式として高い価値が与えられ、は真に次ぐものとされるのに対し、日本的美意識の発達する中世において、この三者は等価値、ないしは草こそもっとも成熟したものであるという、いわば価値観の逆転現象が起きてしまった点である。
 特に
不完全の美ともいうべき「侘び」「冷え枯れる」といった美意識が注目され、真の格をやつし、くずすことによって、より精神性の高い「侘び」の極地に至ろうとする思想が支配的になったのである。

 茶の湯では東山文化の書院茶を
とし、晴れの儀礼ではその形式に従いつつも、侘び庵の茶を理想としている。また、書院茶から独自の茶の世界を作り上げた珠光およびその後継者である宗珠紹鴎とすれば、侘び茶を追求した千利休といえよう。

 なお、真行草は様式上の違いを示すだけでなく、稽古の段階を示す語として用いることもある。たとえば、徹底した稽古は真の格を体得するが、名人ともなれば形式をくずした「破格」つまり草を目指すべきであると。 また徐々に、富裕な数寄者の他に超俗的な趣味生活を享受する隠遁者的な茶人が現れ、こうした者を侘び数寄者と呼んだ。

 こうした通常の流れには収まらない、まさに
破格的な茶法の体現者こそ古田織部であった。
利休の茶は、珠光・紹鴎らの真・行の茶をもとに精神性を深め、次第に
草の境地へと到達した。
一方織部は、利休の高弟であるとはいえ戦国武将であり、さまざまな修羅場をくぐり抜けてきた現世的な人物である。また利休よりも年齢は20才も若く、世代的な感性からいっても相当の違いがあって当然であろう。もともと細かいことには拘泥しない磊落な性格と、自己の存在を顕示しようとする傾向は、端正で禁欲的な師の方法と異なるのは必然であった。そして実際にその本領を発揮するのは、利休没後、織部48才以降のことである。

 織部の好みの茶室として現存するものは藪内流家元にある燕庵、名古屋城内にある猿面茶屋織部堂、奈良国立博物館内の八窓庵、大徳寺三玄院(石田三成の塔中)の篁庵などである。これらは台目の茶席で、利休の侘び茶の狭いものと比べるとどれも広い。また、茶室には織部窓を設け、暗くて陰気な茶室を明るくなごやかなものとした。利休が景色を抑え、内面の美を追究したのに対し、視覚的な美しさを演出したのである。こうしたアイディアは茶室に向かう露地や腰掛け待合いなど、随所にとり入れられたが、視覚的効果、光を意識したデザイン構成は当時としてはまさに破格の的なデザインといってよいものであろう。
 織部はこのほか、南蛮趣味を取り入れるなど独自の視点や感性を茶道具に取り入れ、またすぐれたアートディレクター的センスを発揮して、桃山時代の美の極致といわれる
織部焼きなどの焼き物を次々と創造していくのである。

解  説
 東山文化  室町時代中期、足利義政の時代の文化をいう。
 文明15年(1483)に完成した銀閣を中心とする東山山荘にちなんでこう呼ばれるが、室町前期、足利義満の北山文化に対する呼称でもある。
 東山文化の特徴は、禅宗の影響を受ける一方で、立花、茶の湯、連歌、能、水墨画などの新しい文化が起こり、近世文化、および、近・現代文化の源流をなした点にある。 一条兼良らに代表される五山文学、宗祇・心敬による連歌、周分・雪舟らの水墨画、土佐光信による大和絵の復興、狩野正信による狩野派の画風大成、池坊専応による立花など枚挙に暇がないが、将軍家に近侍して諸芸をつかさどった同朋衆と呼ばれる集団も、特筆すべき存在であった。
 同朋衆は、猿楽の音阿弥、作庭の善阿弥、唐物奉行を担当した能阿弥・芸阿弥・相阿弥、香、茶の千阿弥、立花の立阿弥など、すべて阿弥号をもつために阿弥衆とも呼ばれ、東山文化で果たした役割は大きい。なかでも唐物目利きとして有名な能阿弥は、歴代足利将軍家が蒐集した唐物を整理分類し、いわゆる東山御物を選定したことで知られる。
また、東山文化を考えるうえで重要なのは、書院建築の発達であろう。唐物を飾り、茶を点て、花をいけ、芸能を演じるという行為は、すべて書院空間のなかで行なわれた。書院建築を取り入れた銀閣には、東求堂の一部として同仁斎と呼ばれる茶室が設けられているが、これは珠光によって考案された四畳半茶室のさきがけをなすものである。珠光による書院茶の湯の簡略化とそれにつづく侘び茶創始の原点は、ここに存在するといっても過言ではないのだ。 このように侘びや幽玄の境地を重視し、武家と公家の文化が融合して花開いた東山文化は、戦国期の守護大名や地方に下向した公家たちによって地方にもたらされ、独自の地域文化を育むことにもなるのである。
 東山御物  歴代足利将軍は、唐物(からもの)と呼ばれる中国の美術工芸品の蒐集に熱心であった。とくに3代義満は宋・元の名画や茶器のコレクターとして一時代を築いた。その後、茶に関心を示した6代将軍の義教や8代将軍の義政の頃にも新たに蒐集品が加えられ、東山第(ひがしやまてい)には「七珍万宝ハ其数ヲシラズ」といわれるほどに、名品珍器があふれていた。
 東山御物(ひがしやまごもつ。御物は「ぎょぶつ」とも)とは、狭義には東山殿と呼ばれた義政の蒐集品を指すが、広義には将軍家の所蔵した美術工芸品全般をいう。ちなみに、徳川将軍家の所蔵品を柳営御物と呼ぶのに対しての呼称である。
 これらの選定作業は義政と能阿弥らの協議で行なわれたが、義政より39歳年上で、将軍の美意識を育て指導した稀代の目利き、能阿弥がイニシアティヴを握ったであろうことは想像に難くない。
 その区分方法は、対象となる名画や器物を上中下に分け、上は無条件で御物とし、中以下はこれに当たらないと判定した。指定されたものの一部を挙げると、茶壺では松島、四十石、捨子、橋立。茶入れでは作物茄子(つくもなすび)、万歳大海(まんぜいだいかい)。名画では徽宗皇帝筆の桃鳩図と鴨図、牧渓筆の墨絵観音に猿と鶴の図の三幅対、瀟湘八景図、玉澗筆の瀟湘八景図などなど、そうそうたる名品が並ぶ豪華さである。
 御物は単なる収蔵品ではなく、常に書院座敷に飾られ鑑賞されるものであったが、後年、御物の中でも特に茶器が茶の湯記録のなかで復活し、美術鑑賞に大きな影響を与えた。しかし、足利幕府の衰退とともに売却され、また焼失・散逸し、その一部が戦国大名および堺の豪商たちの手に渡ったのである。

侘び数寄
 茶道が普及するに従い、富裕な数寄者のほかに超俗的な趣味生活を享受する隠遁者的な茶人が現れ、こうした者を侘び数寄者と呼んだ。
 『山上宗二記』によれば、「一物も持たず。胸の覚悟一、作分一、手柄一、此の三箇条の調いたるを侘び数寄と云う」と記している。すなわち、なにも持たないから侘び者で、覚悟がきまっており、創意・工夫(作意)をし、功績(手柄)がある者、と規定している。しかしここでいう覚悟とは、心の内が綺麗なことを指す。
 このように説明するといかにも難しそうに感じるが、『茶湯者之伝』によると、珠光の弟子善法は酒の澗をする鍋で食事をしたり茶を飲んだので、胸の内の綺麗な者として師から褒められた、とある。ところが、この話は『良恩寺手取釜由緒書』に於いてはで鍋でなく、なすび型の茶釜に変わって伝わっている。そしてあるとき秀吉がこれを聞き、その行方を捜させたが所在が分からず、利休に命じて善法と同じ茶釜を作らせ、晩年まで愛用したという。なお、当の茶釜は京都市の良恩寺に現在も伝わっている。
いずれにしろ、特に名のある道具がなくても、茶の精神を理解した者が作法に縛られずに愉しんで茶を点てるというところに、侘び数寄のこころが存在するのである。