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信長は少年時代の那古野城で、筆頭家老の平手政秀に茶の湯の手ほどきを受けたと考えられている。平手政秀は、元々は父信秀の家老で、公家の日記などからも当時としては相当の数奇者として知られていた。
信長が茶の湯に本格的に関わるようになるのは、永禄11年(1568)の上洛以降で、上洛に際して帰属してきた松永久秀は信長に大名物「九十九髪(つくもがみ)」を献上して忠誠を誓い、堺の豪商今井宗久は、信長と近づきになるため名物「松島の壺」と大茶人・武野紹鴎遺愛の「茄子茶入」を献上した。これによって信長の中の価値観にも影響があったとみられ、翌永禄12年(1569)には、松井友閑と丹羽長秀に命じて、大文字屋宗観から「初花肩衝茶入」、祐乗坊から「富士茄子茶入」、法王寺の竹の茶杓、池上如慶の「蕪なしの花入」などの天下の名物といわれる茶道具を入手させている。はやくも茶の湯の新たな利用法を見出し、活発に動き始めたということであろう。
また翌永禄13年(1570)にも堺の代官となった友閑と長秀に命じて、堺で名物の進上令を発し、数々の名物を手中にする。こうして東山御物をはじめ「天猫姥口釜」、白天目茶碗や「松花の壺」「金花の壺」などの名物が信長の手に集められた。
信長の時代には、まだ茶道という言葉は認知されておらず、茶の湯は接客手段としてその場を楽しむための嗜好品であり、道具は財力と権力の象徴であった。信長が蒐集した名物も、唐物と呼ばれる中国龍泉窯などの磁器や朝鮮半島からもたらされた陶器、絵画が中心であった。
信長は、それまで単に接客手段としての楽しみや道楽であった「茶の湯」を、独自の感覚で政治の手段に用い、名物と称される茶道具を中心に、土地や金銭に代わる新たな価値基準に設定することを創作した。
更には、武功を立てた家臣に茶をふるまい、茶道具を下賜し、家中の部下に茶会を主催できるか否か等の序列を決め、茶の湯によって家臣を統制するための「茶湯御政道」を定めたり、京や堺の町衆を掌握するために、度々茶会を開催している。そして、信長の配下で茶の湯全般を取り仕切る職制である「茶頭」を配置し、今井宗久・津田宗及・田中宗易(千利休)らを任じ、それを利用した。
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