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第8研究室

文化】趣味

舞踊
 詠 歌

 

詠 歌

 こちらでは、すでにある歌や謡を唱ったということではなく、信長自身が自ら作り、自らが詠んだとされる唄についてまとめ、そこに詠み込まれた心情から、信長の心根やその当時の状況などもあわせて考察してみたいと思う。
 また、ここでは出典が明確な物にかぎらず、信長の作とされるものは一応こちらに納め、そのうえで「
出典不明」を明記し、真偽についても検討してみたいと思う。

信長詠んだ歌一覧表

                 ・・・ 出典不明

 

和 暦

日  付

歌(略)

元号

(西暦)

天文 -   -    

弘治
-   -    
永禄 11   -    
元亀   -    
天正 -   -    
天正      ★ きつねなく声も うれしくきこゆなり・・・
天正   2  
天正 10   3

13
天正 10   4

14


1
永禄 11年
(15**)
*月

**日

二本手に入る今日の悦び里村紹巴

     舞ひ遊ぶ千世万代の扇にて(信長)

***

考 察
永禄11年,足利義昭を奉じて上洛した際、連歌師里村紹巴が扇二本を信長に献じた際に詠んだ句に付けた句。出典は小瀬甫庵の『信長記』。


2
元亀 3年
(15**)
*月

**日

 銭ぐつわはめられけるか右馬の助

     人畜生と是をいふらめ

***

考 察
元亀3年,非理の訴えを為した織田右馬助という人物に対して詠んだもの。 出典は小瀬甫庵の『信長記』。

3
天正 3年
(15**)
5月
 

**日
 
 三河国 設楽原 茶臼山 信長本陣

 きつねなく声も
    うれしくきこゆなり
       松風清き
         茶臼山かね

歌評

 この歌についての歌評をみついけたので簡単に紹介したい。それは昭和54年発行の『三英傑の家来たち』愛知県文化財保存振興会編に「長篠の役三小話」という題で鈴木太吉氏が書かれた文の「一、右大臣信長の歌」という一節である。

 『三十一文字の和歌が、いかに風雅・風流の所産であったとはいえ、この歌はあまりにも平和で静かで、軍陣に臨んだ大将の作らしくない。第二句の「うれしく」のあたりには幾分実感らしいものが感じられないでもないが、「松風清き」の句、これはどうにもひどい。決戦を前に控えて滞陣する武将の実感とは、とても思われない。なお、信長、この度の首途の発句は「松風にたけたくひなきあしたかな」であったという(『三河名所図絵』中・三七八頁)。和歌にも発句にも、「松風」が出てくるのは面白いかも知れぬ。
 次に、決句の「茶臼山かね」、これは「茶臼がね」としか考えようがないが、それが、「茶臼山が嶺」ならば茶臼山の山頂をさすことになる。しかし、「茶臼山が根」で、茶臼山の麓あたりを指すものかとも考えられる。(略)しかし、「山の根」でも、また「山の嶺」でも、肝心の作者位置はさっぱり明瞭にならぬのが大きな欠陥である。あれやこれやで、この一首の出来ばえは甚だ芳しくないことになる。
 あるいはこの歌は信長の作であるにしても、どこかほかの茶臼山で詠んだ作であったかも知れぬ。茶臼山という山は、かちこちにある山だからである。(略)
 ついでに言う。文学的な才能においては、信長は武田信玄に遠く及ばないような気がする。上述のように信長の茶臼山の狐の歌は歌調が繊弱で実感に乏しく、全体がこしらえ物だという感じが強くする。(略)
信長の歌才は信玄に及ばぬだけでなく、恐らくは叛臣明智光秀にさえも劣りそうだ。司馬遼太郎『国盗り物語』によると、光秀には坂本城の松を詠んだ作「我ならで 誰かは植ゑむ 一つ松 こころして吹け 滋賀の浦風」というのがあるらしい。なかなかの出来ばえで、茶臼山の信長作よりは遙かに上の腕前である。』

 信長の自作か否か定かではないものではあるものの、正に酷評されている。(^◇^;)

考 察

 JR飯田線「茶臼山」駅(豊橋駅より40分)より、およそ2Km北方に茶臼山(新城市北部地区)がある。こここそは、天正3年5月の長篠合戦の際に織田信長が本陣を置いた場所である。、その山頂には一つの歌碑(明治35年6月建設)がたてられている。その歌碑には上記の歌が刻まれている。しかし、その出典については不明であり、これが信長の作であるか否か真偽は定かではない。

 上の「歌評」を気にせずとも、確かにこの歌からはのどかな雰囲気が伝わって来る。これから戦をするような気概は感じ得ない。もしや勝利を確信して余裕の歌だったのであろうか。

参 考  鈴木太吉『三英傑の家来たち』愛知県文化財保存振興会編(昭和54年発行)


4
天正 9年
(1581)
2月
 

**日
 

 馴れ馴れてあかぬなじみの姥口を

     人にすはせん事をしぞ思ふ

***

考 察

天正9年2月,馬揃えに参加するため上京した柴田勝家に,姥口の釜を与えるときに詠んだ歌

出典は小瀬甫庵の『信長記』。 『当代記』にも似た歌があります。真作の可能性あり?


5
天正 10年
(1582)
3月
 

13日
 

 勝頼と名乗る武田の甲斐もなく

    いくさにまけてしなのなければ

***

考 察

天正10年3月13日,信濃へ出陣した信長のもとへ武田勝頼親子の首がもたらされたとき

出典は小瀬甫庵の『信長記』、 『当代記』。


6
天正 10年
(1582)
4月
 

14日
 

今川の流れの末も絶えはてて

     千本の桜散りすぎにけり

***

考 察

天正10年4月14日,甲府から安土へ帰る途中,今川の旧跡,千本の桜を見て

■参考/『戦国時代和歌集』川田順(昭和18年、甲鳥書林)
        日本秀歌第12巻『戦国武将歌』川田順(昭和32年、春秋社)