第8研究室内部構成表
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信長は、それまで単に接客手段としての楽しみや道楽であった「茶の湯」を、独自の感覚で政治の手段に用い、名物と称される茶道具を中心に、土地や金銭に代わる新たな価値基準に設定することを創作した。
更には、武功を立てた家臣に茶をふるまい、茶道具を下賜し、家中の部下に茶会を主催できるか否か等の序列を決め、茶の湯によって家臣を統制するための「茶湯御政道」を定めた。
また、京や堺の町衆を掌握するため、たびたび茶会を開催しており、信長の配下で茶の湯全般を取り仕切る職制である「茶頭」を配置し、今井宗久・津田宗及・田中宗易(千利休)らを任じ、それを利用した。 |
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今日でも大相撲の終わりにみられる「弓取り」の儀式は、信長が優勝者に褒美として弓を与えたことがその始まりとされる。信長は各地で相撲会を開催し、多くの観戦者を招待した。また、相撲会でよい成績をおさめた力士を家臣として取り立てたり、褒美を与えた。そのため、近江はもとより畿内一円から、力自慢の者たちが安土にやってきた。 |
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信長は、ことのほか馬が好きで、自ら馬に跨って遠乗りしたり狩猟にでかけた。各居城には立派な馬場や厩を築いており、特に安土では馬市に力を注ぎ、駿馬を獲得することに力を注いでいた。 |
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信長は、青年期から弓・鉄砲・兵法の鍛錬と並んでたびたび鷹狩りを行なった。これは直属の兵の軍事訓練や領内の地理検分を兼ねるものでもあった。また、家督を長男信忠に譲った晩年に於いても各地にて鷹狩りを行っている。 |
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信長は父や身内に芸能を愛好する者も多く、歌舞・能・狂言などを好んだ。幼少の頃より松井友閑に謡(うたい)を習い、出陣前には得意の「敦盛」を吟じた。
また、津島神社の盂蘭盆会では自ら女踊りを披露したり、踊り狂ったように大騒ぎをする「御狂」と称する催し事をたびたび行なったりもしている。
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本能寺の変の前夜から明け方まで信長は初代本因坊算砂と碁をうっていたというのは有名な話。 |