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崇福寺は臨済宗妙心寺で、神護山崇福弘済弾寺と号する。
寺伝によれば、文明元年(1469年)土岐成頼及び斎籐左衛門長弘により健立し独秀乾才を招き開山した。開山は独秀乾才禅師であり、後には織田家菩提所、有栖川宮家祈願所となった。本尊は延命地蔵菩薩である。
第二世には仁岫宗寿、第三世は甲斐の恵林寺において織田信長の命に背いて楼門もろとも焼殺され、「安禅はかならずしも山水をもちいず心頭滅却すれば火自ずから涼し」という有名な句を残したことで有名な快川紹喜である。快川国師は61歳まではこの岐阜・宗福寺に住し、後に甲斐の武田信玄に招請されて、恵林寺に迎えられた。
信長の禁制
織田信長が、斎藤龍興を亡ぼして永禄10年(1567年)岐阜に移るや、すぐに禁制を出して当寺を菩提所として特別に保護し、ここを祈願所とした。この禁制は信長文書第72号文書として現存している。信長がこの寺を戦没者の菩提所としたのには、美濃を征するきっかけともなった西美濃三人衆の一人、稲葉一鉄が還俗する前にはこの寺に居たということもあり、一鉄からの願い出があったのではないだろうか。
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お鍋の手紙
天正10年(1582年)6月2日信長・信忠父子が明智光秀の謀叛によって京の本能寺で討たれたると、信長の側室・お鍋の方(小倉氏)は、その遺品を送り同寺に埋め位牌を安置させた。これが現在の織田信長父子廟である。この時の書状が現存しており、比較的有名である。
お鍋の方の書状の内容は
わざとおりかみ(おりがみ)にて甲候。
此そうふく(崇福)寺う(上)へのいは(位牌所)しゅにて候まま誰々いらん(違乱)と甲ともおことわり(断)被申べく候。
そのため一筆申候 かしく
天正捨年六月六日 な屋(なべ)
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と記している。
信長が没した後、僅か四日後(天正10年六月六日)に位牌を安置させたということなので、たぶん、信長の位牌所としてはこれがどこよりも早い設置ということになるだろう。お鍋と信長との仲がそれだけ睦まじかったということなのかも知れない。
逆に言えば、信長の葬礼がその一族である次男の信雄や三男信孝が誰一人として行わず、乳母の養徳院(池田恒興の生母)が八月十八日に妙心寺で百箇日法会を行ったのが、信長の御霊の鎮魂を念じた初めての法会であった。少し遅れて、遠く福井・北ノ庄から柴田勝家室となっていた信長の妹お市が、やはり妙心寺に百箇日法会を九月十一日に依頼して行わせている。
秀吉が信長から養子として頂戴した秀勝(信長実子)を大義名分として無理矢理に行った大徳寺の葬礼は、本能寺の変から四ケ月を経過した十月十五日のことだった。
| 血天井 |
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本堂には、信長の嫡孫にあたる三法師秀信が関ヶ原の戦い(慶長5年)の際に、西軍(石田三成方)に加担し、東軍の猛攻にあい激戦の末落城した際の岐阜城の床板を使用した“血天井”がある。
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戦死した将兵の菩提を弔うため、天井に張られたもので、今でも鎖かたびら、鎧ひただれの血痕が附着していのが見える。 |
なお春日局が乳母の三代将軍徳川家光の寄進した煙草盆などゆかりの品もあります。
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