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■この寺と関係の深い人物達・・・
===茶の湯と関わりの深い南宗寺には、
驚くほど多くの人が関わりをもっている===
●武野紹鴎(たけの・じょうおう)(1502〜1555)
村田珠光(むらた・じゅこう)一門として茶の湯を学び、後に堺に帰って津田宗及、今井宗久、千利休らに詫び茶を伝えた。この南宗寺の開祖大林宗套(だいりんそうとう)に参禅して一閑居士の号を許された。
南宗寺には紹鴎の供養塔がある。
●津田宗及(つだ・そうぎゅう)(15**〜1591)
天王寺屋という堺の豪商の家に生まれ、茶人として有名な父・津田宗達に茶を学びました。 南宗寺の開祖大林宗套(だいりんそうとう)和尚から禅を学び、千利休今井宗久とともに豊臣秀吉の茶頭として仕えた。
●沢庵宗彭(1573-1645)
江戸時代初期の禅僧。沢庵和尚として知られる沢庵宗彭は、天正元年(1573)、但馬(兵庫)に生まれた。幼くして出家し、修行を重ねた後、大阪の堺にある臨済宗南宗寺を経て大徳寺派の董甫宗仲(くんぽそうちゅう)、春屋宗園(しゅんおくそうえん)に師事、春屋の法弟・一凍紹滴(いっとうしょうてき)の印可を受け、37歳の若さで京都・大徳寺の第一五三世の住持となった。
寛永6年(1629)の紫衣事件(朝廷が僧に授けた法衣を幕府が剥奪した事件)では幕府に反抗し、出羽(山形)に流罪となるが、権力に屈せず、一貫して正論を通す沢庵和尚の硬骨ぶりは、一層その名を高めることになったと言われる。正保2年(1645)、権力、名誉、地位にとらわれず、無私無欲の境地を求め続けた沢庵は、品川の東海寺で73歳の孤高の生涯を終えた。
沢庵禅師は早くから詩文・書画にも才を発揮し、千宗旦、小堀遠州らの茶人をはじめとして、柳生新陰流の柳生宗矩や三代将軍・徳川家光にも大きな影響を与えた。著書には、剣禅一如(けんぜんいちにょ)の思想を示した「不動智神妙録(ふどうちしんみょうろく)」がある。また和漢の教養にあふれ、深い精神性をたたえた沢庵の墨蹟は、多くの茶人に尊重され続けている。
●千 利休(せんの・りきゅう)
利休は魚屋(ととや)という屋号を持ち、本名を田中(納屋とも言う)与四郎という豪商だった。初め北向道陳に茶湯を学び、のち武野紹鴎に師事し、南宗寺の大林宗套に参禅して宗易の号を受けた。茶禅一味の悟りに達し、侘茶を完成した。同じ堺の豪商だった今井宗久の推挙で織田信長に仕え、次いで秀吉の茶頭となり、正親町天皇から利休居士の号を賜った。利休の墓は、京都大徳寺内の聚光院にあるが、南宗寺にはその遺髪を埋葬し、それを取り巻いて、表・裏・官休庵の三千家代々の供養塔が建てられている。
●荒木村重(あらき・むらしげ)
信長に背き、一族を残したまま出奔した荒木摂津守村重は、後に茶人として知られるが、天正14年(1586)5月4日、堺にて52歳で没し、法名を「秋英宗薫居士」という。南宗寺に埋葬される。
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