臨済宗大徳寺派 南宗寺 本源院  

所在地 / 大阪府堺市南旅籠町東3−1−2
   TEL 072-232-1654 

 

 

  

 南宗寺総門
 

 
■概要  三好長慶が亡父・元長の菩提を弔うために建立し、弘治3年(1557)大徳寺第90世大林宗套
     を開山として落慶し、大坂夏の 陣で焼失、元和3年(1617)
沢庵和尚により再建されました。
     甘露門(国重文)や鐘楼、仏殿(国重文)なとが残り、仏殿天井には
狩野信政筆による八方睨
     みの竜が描かれています。茶室実相庵の前庭には、
千利休の袈裟形水鉢、武野招鴎の愛玩した
     六地蔵石灯篭があります。方丈前庭(国の名勝指定)は枯山水式の禅庭園で
古田織部の作と伝
     えられています。また、大坂の陣で実は家康は戦死していて、この寺に葬られたという伝承が
     残されている伝徳川家康墓があります。更に、この寺は千利休が禅の修行をした寺でとして知
     られ、利休や武野招鴎、千家一門の墓や供養塔、茶人で豪商の
津田宗及一門、三好長慶一族、
     連歌師牡丹花肖柏らの供養墓碑があります。

■休館日  
■交 通  阪堺線「御陵前駅」から徒歩5分
■拝観料  大人400円 中人300円 小人200円
■拝観時間 9:00〜16:00
■駐車場   有(30台)

 この南宗寺の興りは、大永六年(1526)古嶽宗亘(こがくそうこう・大徳寺76世))が堺に、大徳寺の流れを汲む南宗庵を開いたことにはじまると言われています。当時大徳寺には、一休の流れを汲む真珠派、陽峯宗韶(ようほうそうじょう・大徳寺70世)の竜泉派、実傳宗眞(じつでんそうしん・大徳寺56世)から二派に分かれた南派(東溪宗牧・とうけいそうぼく・大徳寺72世)と、そして北派(古嶽)の四つの流れに分かれていました。南宗庵とは、その中の北派の僧が大徳寺を務めた後の隠居寺としての存在でありました。
 その後、その南宗庵は、大林宗套(だいりんそうとう・大徳寺90世)の代に三好長慶の寄進を受けて南宗寺として拡充されました。そこで堺の茶人達はきそってこの寺の門を叩き参禅し、茶禅一味の世界を求めたと言います。それはさながら、堺の茶の湯の総本山的様相を呈していたと思われます。ここで、茶の湯と大徳寺とのつながりが生まれのです。

 また、織田信長が堺を手中におさめようとしたとき、堺の納屋衆は三好氏と手を組みこれを阻止しようとしましたが、信長が実力行使にでると、頼りの三好勢はすぐに逃げ去り、結局は失敗に終わります。しかし、その後も利休は三好氏とのつながりも大事にし、三好長慶の息子義継が大徳寺に長慶の菩提寺として建立した聚光院を自分の一族の菩提寺にしています。
 戦国の世も収束し、京都に平穏の時代が訪れると、茶の流れも次第に京に集まるようになり、それに従い、大徳寺が茶の湯の総本山と化していったのです。

 大徳寺の金毛閣は利休の寄進によって建てられました。そしてその階上に利休の像を勝手に安置したことが秀吉の不興をかい、その不敬を問われ、切腹に至る原因になりました。利休が切腹し、その生首とともにその問題の木像も一条戻橋で磔にされたといいます。 

この寺と関係の深い人物達・・・

   ===茶の湯と関わりの深い南宗寺には、
       驚くほど多くの人が関わりをもっている===

  武野紹鴎(たけの・じょうおう)(1502〜1555)

村田珠光(むらた・じゅこう)一門として茶の湯を学び、後に堺に帰って津田宗及、今井宗久、千利休らに詫び茶を伝えた。この南宗寺の開祖大林宗套(だいりんそうとう)に参禅して一閑居士の号を許された。 南宗寺には紹鴎の供養塔がある。

  津田宗及(つだ・そうぎゅう)(15**〜1591)

天王寺屋という堺の豪商の家に生まれ、茶人として有名な父・津田宗達に茶を学びました。 南宗寺の開祖大林宗套(だいりんそうとう)和尚から禅を学び、千利休今井宗久とともに豊臣秀吉の茶頭として仕えた。

  沢庵宗彭(1573-1645)

江戸時代初期の禅僧。沢庵和尚として知られる沢庵宗彭は、天正元年(1573)、但馬(兵庫)に生まれた。幼くして出家し、修行を重ねた後、大阪の堺にある臨済宗南宗寺を経て大徳寺派の董甫宗仲(くんぽそうちゅう)、春屋宗園(しゅんおくそうえん)に師事、春屋の法弟・一凍紹滴(いっとうしょうてき)の印可を受け、37歳の若さで京都・大徳寺の第一五三世の住持となった。
 寛永6年(1629)の紫衣事件(朝廷が僧に授けた法衣を幕府が剥奪した事件)では幕府に反抗し、出羽(山形)に流罪となるが、権力に屈せず、一貫して正論を通す沢庵和尚の硬骨ぶりは、一層その名を高めることになったと言われる。正保2年(1645)、権力、名誉、地位にとらわれず、無私無欲の境地を求め続けた沢庵は、品川の東海寺で73歳の孤高の生涯を終えた。
 沢庵禅師は早くから詩文・書画にも才を発揮し、千宗旦、小堀遠州らの茶人をはじめとして、柳生新陰流の柳生宗矩や三代将軍・徳川家光にも大きな影響を与えた。著書には、剣禅一如(けんぜんいちにょ)の思想を示した「不動智神妙録(ふどうちしんみょうろく)」がある。また和漢の教養にあふれ、深い精神性をたたえた沢庵の墨蹟は、多くの茶人に尊重され続けている。

  千 利休(せんの・りきゅう)

利休は魚屋(ととや)という屋号を持ち、本名を田中(納屋とも言う)与四郎という豪商だった。初め北向道陳に茶湯を学び、のち武野紹鴎に師事し、南宗寺の大林宗套に参禅して宗易の号を受けた。茶禅一味の悟りに達し、侘茶を完成した。同じ堺の豪商だった今井宗久の推挙で織田信長に仕え、次いで秀吉の茶頭となり、正親町天皇から利休居士の号を賜った。利休の墓は、京都大徳寺内の聚光院にあるが、南宗寺にはその遺髪を埋葬し、それを取り巻いて、表・裏・官休庵の三千家代々の供養塔が建てられている。

  荒木村重(あらき・むらしげ)

信長に背き、一族を残したまま出奔した荒木摂津守村重は、後に茶人として知られるが、天正14年(1586)5月4日、堺にて52歳で没し、法名を「秋英宗薫居士」という。南宗寺に埋葬される。

  
 甘露門  重要文化財指定(1652年 建立)   

名勝指定 枯山水の庭園




千利休の茶の師、武野紹鴎の碑

     
 坐雲堂


徳川家康の墓

家康影武者説

 南宗寺には少し変わった伝説が残っている。 「大阪・夏の陣」の時、大阪方の奇襲を受けて逃げ出した家康は、安全な所へ逃げようとした。その時、通りかかった葬式の行列の棺桶の中に隠れたという。 この棺桶を後藤又兵衛は怪しいとして槍でついた。 その槍は家康の脇腹をついたが、家康は悲鳴をかみしめながら穂先を袖でぬぐって、 血を残さず気づかれずに済んだ。 しかし、この傷が命取りで、堺の南宗寺で家康は息絶えたと言う。

参考:「日本の歴史101の謎」 
株式会社三笠書房 出版 
小和田哲男   著 

 

 

千利休の墓・千家一門の墓
(国指定の重要文化財 )




南宗寺には信長・信忠両公の塔頭である本源院がある。
    

織田信長・信忠父子廟

 

 信長・信忠両公の供養塔
 

Map


印・・・・・**寺


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