阿弥陀寺

所 在 地 / 京都市上京区寺町通今出川上ル鶴山町
         (はじめ近江坂本、のち京都阿弥陀寺町)


織田信長・信忠・討死衆墓所

織田信長(右)・信忠(左)の墓石 
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 阿弥陀寺に襲蔵されている『信長公阿弥陀寺由緒之記録』(『史籍集覧』所収)
 には次のような記載があります。


 時に天正十年六月二日、明智光秀謀反の時、清玉上人は信長公の旅館本能寺に押寄せるをきき、塔頭の僧徒廿人余りを召し連れ本能寺に駆けつけられ、表門は厳重に軍兵四方を囲み寺内に入る事出来ず、裏道より辛うじて入るが堂宇に火が放たれ、すでに信長公が割腹せられしと聞き、そばの竹林に十人余の武士集まりて火を焚く者あり、上人がこれをみるに信長の家臣なり、之に顛末を聞くに信長公割腹の時必ず死骸を敵に渡すことなかれと遺言あり、しかし四方敵兵にて死骸を抱きて遁れ去る道なし、やむなく火葬して隠しおいて各々自殺せんと一同答えたり、上人信長公とは格別の由縁あるを以て火葬は勿論将来の御追悼をもなさんとて武士に乞い、各々自殺するよりむしろ信長公の為に敵にあたりて死せんことを望むと語りければ、武士ら大いに喜び門前の敵を向うすきに上人火葬し白骨を法衣につつみ本能寺の僧徒らが逃げるのにまぎれこんで苦もなく帰寺し白骨を深く土中に隠しおきたる。

 

 秀吉が信長の一周忌を己が喪主として執り行おうとして阿弥陀寺住職(清玉上人)に懇願したところ、信長亡き後の織田家の乗っ取りに近い振る舞いである、すなわち継承者争いを勝ち抜くために信長の一周忌を利用しようとする秀吉に、人の道に在らずと非難し、その様な者に荷担するわけにはいかないとしてこれを断ったという。そのため秀吉は大徳寺に総見院という塔中を新たに造ることになったとの逸話があります。秀吉が他の寺ではなく阿弥陀寺に最初に願い出ているというところがこの逸話の信憑性を裏付けているのではないかとして、史実に最も近いものではなかったかと有力な説とされています。また、その後天下人となった秀吉は阿弥陀寺への怒りを露にしその所領は大きく削られたと伝えられています。

阿弥陀寺山門 

山門前に立てられた木札

右上の木札には・・・

 蓮台山と号する浄土宗の寺院で、本尊は丈六の阿弥陀如来である。当寺は天文年間(一五三二〜一五五四)、清玉上人の開創になり、当初は西ノ京蓮台野芝薬師西町(現在の今出川大宮東)に八町四方の境内と塔頭十一ケ寺を構えていた。また当時、正親町天皇は清玉上人に深く帰依し、東大寺大仏殿の勧進職を命じるとともに、当寺を勅願所とされた。
 清玉上人は織田家と深い親交があり、天正十年(一五八二)六月二日の本能寺変の折、本能寺等にかけつけ、織田信長、信忠父子及び家臣百有余名の遺骸を当寺に埋葬したといわれる。
 本堂には織田信長、信忠父子の木像等が安置され、墓地には信長、信忠や本能寺の変討死衆の墓、儒者皆川淇園、俳人蝶夢の墓等がある。京都四十八願寺巡拝の十六番札所でもある当寺は、天正十五年(一五八七)、蓮台野からこの地に移され、現在に至っている。

京都市

と書かれてあります。

織田信忠木像                       織田信長木像

本能寺の変殉死者位牌

織田信長御位牌

森蘭丸・坊丸御位牌

信長が使用したという旗


 この旗は、先代の住職の頃まではかなり沢山残されていたらしいが、困窮した時代でもあって止むを得ず処分してしまったものも多かったという。現在は一つしか残っておらず、寺の母屋入口の間に額に入れられ大切に飾られている。色がオレンジ色系に変色しているが、元はもう少し黄色に近い色ではなかったかと思われる。形状からすると足軽用の旗なのかも知れないが、指物にくくりつける部分が無いので、その使用用途は不明である。

森兄弟(力丸・乱丸・坊丸)の墓石
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猪子兵助之墓石

 本堂裏手の墓所には、信長をはじめ信忠や森乱丸、坊丸、力丸の三兄弟、猪子兵助ら確認できるのは数名だけではあるが、12名の家臣の墓があると伝えられている。清玉上人が信長の亡骸を本能寺裏の藪で荼毘にふしてその遺骨を持ち帰えり埋葬供養したとする阿弥陀寺襲蔵の『信長公阿弥陀寺由緒之記録』の記述が事実であるなら、ここに居並ぶ家臣らの墓には遺骨はないのだろうか?明智勢が取り巻く本能寺からこれだけの家臣の遺骨までをも同時に持ち帰ったとは思えない。しかし、本能寺の変後何度も足を運んで歴々の者どもの遺骨を拾い集め信長の周りに手厚く埋葬し供養したとも考えられる。個人的にはそう信じたいが真実は謎のままである。
 現在の寺地は元の場所から移転させられており、秀吉による弾圧等もあったと伝えられていて確かに広いとは言えない。乱丸や猪子兵助らの墓の後ろはすぐにトタン塀で他の敷地に隣接していてその経歴を感じさせている。

(撮影及び文:雷蔵)

   織田信長

/ 情報誌『デス・ウオッチング』93.5より

 天正10年(1582)6月2日。本能寺で明智光秀に奇襲された信長は、首を敵に渡すこ とを恐れて自害した。正式な葬儀は死から遅れること4カ月半、10月15日、秀吉の主宰 により行なわれた。
 さて6月2日、阿弥陀寺の清玉上人は事件を聞きつけると急いで本能寺に行き、墓の後 の薮の中で武士たちが信長の遺骸を火葬しているところに出会った。彼らに問いただし てみると、なんでも遺体を敵に渡さないようにとの信長の遺言を守って火葬していると の返事であった。上人はそれを聞くと、「火葬は出家の役である。ここで火葬したあとに、 私が遺骨を阿弥陀寺に持ち返り、墓を築き、その後葬礼法事を行なうのでお任せくださ い」と言い、焼かれた信長の焼骨を取り集めた。そのあと光秀の兵卒たちに怪しまれな いよう、本能寺の僧が立ち退く様子をして阿弥陀寺に帰り、ひとまず遺骨を隠した。そ ののち、寺院の僧徒たちだけで密かに葬儀を行ない、お墓を築いて納骨した。
 こうした事情を知らない光秀は、信長の遺骸を士卒たちに捜させたが、ついに発見出 来なかった。一方、阿弥陀寺の清玉上人はさらに本能寺で討ち死にした112人の死骸を引 き取り、阿弥陀寺の墓所に葬った。さて6月13日、光秀を山崎の合戦で討ち滅ぼした秀 吉は、信長の遺骨がまつられている阿弥陀寺に対し、ここで葬儀を行なうことを告げた。 しかし上人は、すでに葬儀はすんだからそれには及ばないといって、秀吉の申し出を辞 退した。さらに法要料ならびに御位牌前仏料として300石の御朱印が、秀吉から差し出さ れたが同じように辞退した。そのため秀吉は大変に立腹し、柴野にある臨済宗大徳寺境 内で法事をすることになった。

 法事のスケジュール

 信長の葬礼が遅れたのは信長の後継者問題からであった。やがて葬儀は信長の四男で 秀吉の養嗣の羽柴秀勝を喪主として行なわれることになり、法要の日程は次のようにき められた。戒名、惣見院殿贈大相国一品泰巌大居士。場所、龍宝山大徳寺、10月初旬よ り17日までの法事のために、費用一万貫、ならびに精米千石が大徳寺の納所に渡された。
 10月11日転経(経文を転読すること)、12日頓写(経を書写すること)施餓鬼、13日 懺法、14日入室、15日火葬、16日宿忌というスケジュールであるが、クライマックスは 15日の葬儀で、特に大徳寺から火葬場蓮台野に向けての葬列である。棺は金紗金欄に よって包まれ、軒の瓔珞欄干は宝珠を形取り、ことごとく金銀がちりばめられ、八角の 柱は丹青を尽くされた。棺の中には遺体の代わりに、沈香に彫刻された仏像が安置され た。蓮台野は大変に大きく、4つの門には白の綾120間(約216米)、中に火屋(火葬舎) がある。秀吉の異父弟である羽柴長秀が警固大将となり、大徳寺より十町ばかり(約1キ ロ)の間に1万余人の武士が警固に着いた。
 さて御輿前轅は池田小新、後轅は信長の五男於次丸が担ぎ、位牌は八男長丸、大刀は 秀吉が持った。行列は2列で約3千人、皆烏帽子、藤衣(麻布の喪服)である。葬儀に参 加した僧は、臨済宗の5大寺をはじめとして京都内外の諸宗、幾万人か知らずと「太閤 記」に記されている。各宗派威儀を繕い、集会して同行した。
「五色の天蓋が日に輝き、 一様の旗が風に翻る。香の煙、雲のごとく、霞ににて、供具、盛り物、亀足、造花、七 宝によって荘厳された」(同上)
 さて下火(導師がたいまつをとり、火葬するため点火すること)は咲嶺大和尚で、偈 のあと秀吉と於次丸が共に焼香をした。こうして秀吉の力を示す葬儀は無事終わった。
 法事は初日より毎日行なわれたが、この間1日の寄付米は120石、17日で終了した。そ のあと信長の位牌所として惣見院が建てられ、同じく卵塔(卵形の石塔)を建てる費用 として銀子1100枚を渡し、さらに永代供養料として、寺領50石の大徳寺に現米500石が 寄付されたのである。
           (資料「太閤記」、「信長公阿弥陀寺由緒之記録」他)