山科言経の日記『言経卿記』の天正10年9月7日の部分には、「阿弥陀寺にて(中略)、天徳院殿前の右府信長公・景徳院殿三位中将信忠など、来る十二日御百ケ日御追善なり」とあり、当時の信長の法名が「天徳院」、信忠の法名が「景徳院」であった様子が伺い知れる。しかし、天正10年10月の秀吉による大徳寺での信長本葬に際し、信長の法名は「総見院」信忠の法名は「大雲院」と改められたらしい。現在の阿弥陀寺の墓石に立てかけられた卒塔婆にも改名された後の総見院と大雲院の文字がみられる。
生前より信長と親交の深かった阿弥陀寺住職の清玉上人は、秀吉から阿弥陀寺で信長の葬儀を行いたいと持ち掛けられるが、秀吉の心根が信長の御霊を供養することを目的とぜず、ただひたすらに、秀吉が信長の後継者であることを世間に宣伝することを目的としていることを見るや、断固として断った潔癖なる御仁である。
どの時期に阿弥陀寺での法名の変更があったのかは解らないが、今となっては清玉上人の心中を知る者もいない。
平成14年、阿弥陀寺では信長に関係のある品々の展示公開を行った。
数年前に訪れた際には、墓石の前に置かれた小さな卒塔婆は見られな
かった。上にある写真は14年の公開時に撮影したもの。