逸 話 単身赴任を禁づる

解 説

亭主元気で 
 留守
駄目!

単身赴任禁止

夫婦元気で   
 努力せよ!

 天正六年正月廿九日のこと、弓衆の福田与一の宅より出火があった。
菅谷九右衛門を奉行として調べてみると、火を出した福田与一は、尾張から妻子を連れて引っ越しをして居らず、単身で安土へ移住していたことがわかった。信長はこのことに激怒し、「家を守るべき妻どもを連れて来ておらぬゆえの不始末だ」と仰せになって、ただちに家臣の単身赴任者の数を調査した。

 すると御弓衆では60名、御馬廻衆でも60名、合計120名もの者が妻子を尾張に残したままであることが判明した。信長はこれらの者を厳しく叱りつけると、岐阜にいる信忠のもとに使いを出し、弓衆の留守家族の住む尾張の私家を焼き払わせ、庭の竹木まで伐り倒させた。

 このことを知って単身赴任の弓衆たちは仰天し、すぐさま家族たちを安土に引き取り、共に暮らすようになったという。信長は今回の過失の代償として、安土城下の南の入り江に新しく道を築かせ、その上で罪を許したという。

 信長は、いかに武芸の達者な弓衆・馬廻衆といえども、その者が見事な働きをするためには、日頃から己の家をきちんと管理し、家族の役割をそれぞれが果たすことが重要であることを厳罰をもって言い聞かせたというわけである。

 藤吉郎(秀吉)の妻、おねに宛てた手紙も有名であるが、男が戦働きで武功をたてるその陰には、女房の助けがあったればこそということを繰り返し、自らの家臣達に教え込んでいたのではないだろうか。しかるに、厳罰として、尾張に離れ暮らしていた女房達と力を合わせて道を築く作業をさせたのも、離れた夫婦の共同作業の第一歩ということではないだろうか。

 文責:雷蔵 (2002.11.22)  


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