ひとこと
この「火起請(ひぎしょう)」という話は『信長公記』にあって有名だが、この話は我々に何を伝えているのであろう?出典が地域に残された言い伝えの類ではなく、当時を共に生きた太田牛一本人の手によって書かれた『信長公記』に記載されていることからも信長本人が赤く焼いた鉄(手斧)を実際に握ったというのは本当のことだろうと思います。
えっ?そんなことをわざわざするだろうか?と思う方もいらっしゃると思います。でも、記述に多少の大げさな表現はあるにせよ、牛一自身が記したように、この事件そのものの背景には「池田勝三郎の家来衆は権威におごっていたので、左介をかばい、成敗させまいとした。」ということがあったのだろうと思われます。鷹狩りの帰りに通りかかりで遭遇した信長は、騒ぎを「つくづくご覧になって早くも信長公はお顔の色を変えられた」たとあるとおり、素早く問題の背景に感づかれたのでしょう。そして火起請そのもののやり方に問題があると判断したのではないでしょうか?
文中には、
> 火起請を取ったときの模様をお聞きになり、
> 「どれくらい鉄を焼いていたのか、元のように鉄を焼きなさい。
> 拝見しよう」とおっしゃられたので、鉄をよく焼いて赤くし、
> 「このように取らせたのです」と申し上げた。
とあります。池田勝三郎の家来衆達が左介をかばい立てしているなら、それほど熱くは熱していない筈です。だから左助も難なくそれを持つことが出来たに違いありません。その事実があるか否かを再度鉄を焼かせることで確認した信長は、確信し、すかさず「私が火起請をうまく取ることができたら、左介を成敗するから、そのように心得よ」と言ったのだと思われます。
> 焼いた手斧をご自分の手の上に請け取られ、
> 三歩歩いて柵に起き、「確かに見ておったな」とおっしゃり、
> 左介を成敗させられた。誠にすさまじいありさまであった。
という部分は、当時の裁定の方法自体に理不尽な部分があり、その結果というものは権力によって右にも左にもできるということを万民の前でしめしてみせたという感じがしてなりません。尾張という地域であるならば、その権力の頂点にある信長が、何故にそのように自分にまで不利益に成りかねないことをしてみせるのでしょう。
同胞をかばいたい池田勝三郎の家来衆達の気持ちもわからなくはない。しかしこの事件で最も問題となっているのは、甚兵衛の留守宅に左介が夜盗に入ったのかどうかであり、甚兵衛が信長の乳兄弟である池田勝三郎の家来であるか否かは問題でない。身内が、或いはそれに近い者が悪いことをしても正すことが出来ないでいたのなら信長配下の規律は名ばかりのものになってしまったのではないでしょうか。信長は始めて自分の軍勢を率いて上洛をした際、京の都で自軍の兵士が乱暴狼藉をしないように厳しく軍律を定めています。この辺りにも、信長の軍律の厳しさが伺えるような気がします。