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この文書は、天正元(1573)年十二月廿八日付けの信長文書(430号)で、足利十五代将軍足利義昭を京都から追放した後に、
出羽の伊達氏(輝宗)宛に信長が上方の状況を知らせた朱印状である。(→文書の確認)
その内容をみると、以下のようである。
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(前略)
仍天下之儀、如相聞候、
公儀御入洛令供奉、城都被遂御安座、数年静謐之処、
甲州武田・越前朝倉已下諸侯之侫人一両輩相語申、妨公儀、
被企御逆心候、無是非題目、無念不少候、然間為可及其断、
上洛之処、若公被渡置京都有御退城、紀州熊野辺流落之由候、
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天下のことについては、ご承知の通りである。
将軍の御入洛に供奉し、遂に城都に安座させたので、
数年は平和であった。
しかし、甲州武田・越前朝倉ら諸大名の侫人が相談をして、
将軍を誘い、謀叛を企てさせた。
仕方のないことではあるが無念なことである。
そして、そのことについて道理を申す為に上洛したところ、
将軍は若公を人質として渡され、京の都を退き、
今は紀州熊野の辺りを流落しているとのことである。
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あくまで将軍足利義昭は、「被企御逆心候」つまり謀叛を企てた悪しき御所と非難をしている。
普通に考えれば、逆心(謀叛)の対象は”天皇への逆心”となるだろう。これを信長と将軍足利義昭との関係に限って見た場合、二人の間に実質直接的な主従関係があるわけではないが、仮にも将軍職にある足利義昭が「主」となり、「従」が信長となるのが妥当な線であろう。となれば、逆心の対象は足利義昭ということになり、謀叛を企てたのが信長となるが、文面からしてそれは有り得ない。謀叛を企てたのは足利義昭ということになっているようなので、その対象は義昭自身と言うことはない。しかし、謀叛の対象を”信長”とするには、主従逆転、的な少々の違和感が伴うように思われる。しかし、文面から読めるその逆心(謀叛)の意味するところは、「甲州武田や越前朝倉らの侫人に誘われてとった槙島城での挙兵」を指しており、本質的にみた場合、やはりその対象は信長へ向けられた行動である以上、逆心とは信長への逆心であると言って間違いないと思う。信長に逆らうことは天皇への逆心に等しいということなのであろうか?
信長の考えの中には、たとえ武家の束ねである将軍という身分にあっても、世の中のためにならなければ天下を治めるだけの正当性を持ってはいないという思考があると思われる。つまり、将軍という地位が天下を治める身分保障ではないことを示している。
天下を治めるのは、普通は地天の君である天皇とされているが、ここでいう「天下」は源家の鎌倉幕府や足利家の室町幕府が治めてきた武家政治での京周辺の統治だけでなく、安定した治世を指しているのであろう。そして一戦国大名が「天下」を動かすことは本来は道理に叶わない。しかし、信長はすでに将軍という職を超越し、信長が全国の治安を静謐にするための戦いをしているとする。つまり信長の戦いは、私戦ではなく公戦であることを強調しているように思われる。
この考え方は、裏返せば、力づくで日本全国を平定するということであっても、その正当性はあくまでも世の中の安定をもたらすための公的な働きをしているか否かが問題視されていることを示している。武力という力を持たない天皇が存続し続けられた理由も正にここにあるのだろう。そしてこのことは、善くも悪しくも天皇という尺度なしに、信長自身がそのまま地天の君とはなり得ない限界のようなものを感じざるを得ない。信長の全国統一戦の正当性は、あくまでも天皇を補佐し、信長が全国の治安を静謐にするための戦いをしているという権威の裏付けが必要となる。
この考え方の到着点として、日本全国統一が完成した折りに、信長自身はその正当性を主張する必要がなくなるか否か、その部分が信長による「天下」の意味する本当の範囲が示されたであろうが、信長が志し半ばで倒れてしまった為、最終的な部分は確定できないままである。
雷蔵(2002.9.4)
修正 05/03/01
修正 05/07/09
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