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●馬揃えは譲位を迫る示威行為?
信長が天皇に譲位を迫ったとして、正親町天皇と信長との間に対立関係があったと考える研究者は少なくないようです。その根拠として挙げられるものとして、天正9年(1581年)2月に行われた「馬揃え」があります。これは信長が、京都の御所の間近に新たに大きな馬場をつくり、天皇の目の前で、信長軍団が勢揃いした壮麗な軍事大パレードを見せつけ、天皇に対して譲位を迫った。つまり武力的な裏付けのない天皇に対して強大かつ圧倒的な武力を見せつけるという示威行動、馬揃えは天皇につきつけられた刃ではないかというのです。
▲馬揃えについては別項を設けて
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●譲位に込められた信長の思惑
信長が正親町天皇に譲位を望む考えをもっていたことは間違えないでしょう。それに加えて、正親町天皇の第五皇子である誠仁親王を自らの猶子(*1)とし、誠仁親王のための壮大な邸宅を献上し、親王をそこへ住まわせるなどの行動もみられました。こういった一連の事実関係から信長の思惑を単純に想像するなら、正親町天皇にかわって、自らの手の内にある誠仁親王を新天皇に即位させることで、自らを天皇の義父として位置づけ、天皇ひいては朝廷という権威の象徴と信長との関係を優位にしたいとの目的があったのではないでしょうか。
●正親町天皇は譲位をどう考えていたのか?
さて、この譲位を望む気持ちは信長の一方的な願いだったのでしょうか。正親町天皇側からもみてみますと、この譲位については天皇自身も天正元年(1573年)頃から話題にしており、実は天皇側もそれを望んでいたことがうかがえるようです。天皇にとっての譲位というのは、本来は喜ぶべきものでした。「譲位」とは、その字の如く天皇の位を譲るということですが、現在の天皇とは異なり、存命中に退位して皇太子に譲位することで、自らは太上天皇(上皇)になることができるわけです。譲位したとはいっても実質は天皇の上の位である太上天皇に就くことになります。本来は臨んで譲位をしたかったのだという考え方もあるのです。事実、正親町天皇も後(天正14年11月7日)に譲位し後陽成に天皇の位を譲っています。
●何故、譲位は実現しなかったのか?
信長も、そして正親町天皇自身も譲位を望んでいたのなら、なぜその譲位は行われなかったのでしょう。おかしな話です。実はこれには、もう一つの視点を加える必要があるように思います。譲位には、それら諸儀式を行うために莫大な費用が必要となったのです。当時の朝廷にはそれだけの蓄えはありませんでした。となれば、その費用を負担してくれる人がいなければなりません。信長が譲位を望んでいたのであれば、その費用を負担するだけ財力が信長にはなかったのでしょうか。いや、各方面に大軍団を進め、畿内だけでなく広い領地を有した信長のことですから、それだけの財力は十分にあったのではないかと思われます。しかし、信長にとって、その財力は常に戦費として必要なものでした。
これまで譲位が実現しなかった理由は、正親町帝の抵抗にあい、天皇に勝る力を信長が備えもつことが叶わなかった。朝廷、天皇に対する信長の政治力は最後まで天皇にかなうことなく、信長は天皇に敗北したと評価する研究者もいます。しかし、本当のところはどうだったのでしょうか。
信長最期の年となる天正10年には、強大な敵として信長を脅かし続けていた甲斐の武田氏を滅亡に追い込むと、つづけざまに越後の龍・上杉謙信が他界します。そして更に、四国平定のみならず中国の覇者毛利氏を破る目鼻もたちます。人生最期の年に、ようやく自分を取り巻いていた多くの問題から信長は解放されることになります。
それまでは、在々所々各方面で勝ち続けるために莫大な戦費が必要でした。また、譲位そして新天皇を即位させるために、伝統にのっとった諸儀式を執り行う必要があり、それを滞りなく実現するには準備も含めて十分な時間が必要になります。譲位が実現しなかった真の理由は、これらの時間や資金を捻出するための余裕が、信長の側になかったということだったのかも知れません。
●信長の最終目的は?
上にみたように、天正の時代に天皇と信長との両者共通の願いとして「譲位」があったのであれば、近年、安土城本丸の発掘調査で発見された御所の清涼殿に類似した遺跡について、天皇の行幸を仰ぐための「行幸御殿」であった可能性は高まるのではないでしょうか。
しかし、行幸を仰ごうとした天皇というのはこれまで考えられていた正親町天皇ではなく、新天皇に即位した誠仁親王であったと考えてもおかしくありません。いや、その方が自然かも知れません。
信長は、自分の猶子である誠仁を新天皇に即位させ、自らの居城(安土城)へ行幸させることで、信長の権威を天皇をも超えるものとして天下に知らせしめ、大きく高めようとしたのではないでしょうか。しかし、信長は果たして中世的権威の否定、王権の簒奪までを意図していたのか、それとも天皇・朝廷の下で、律令制度枠内での政権を考えていたのであろうか。信長が脳裏に描いた全国平定後の政権構想がどのようなものであったのかは、本能寺の変によって信長が横死してしまったことで明確な結論をみることはできなくなってしまった。
しかし、近年の考古学的なアプローチとしての発掘調査や、これまでの固定的なイメージを外して今一度史料の再検討がなされはじめたことで、正親町天皇と信長の関係が従来言われてきた単純な対立関係ではないことが見え始めてきています。今後、若手の研究者がこの研究を更に押し進めることによって、この譲位問題の本来の姿が見えてくることを期待しています。
文責:雷蔵(2002.3.8)
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