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信長は、自らを「予が御所である」として日本国の帝であるかのような発言をしただけでなく、自己を神格化したり、古来から継承されてきた宗教的な権威である比叡山や高野山をはじめとする寺院を焼き討ちしている。あらゆる権威の否定をしたとも言われている。権威の代表ともいえる朝廷に対してはどうであっただろうか。
信長の朝廷への対応について、その評価や解釈は研究者によって異なり、大筋に分類しても、対抗関係が存在した、天皇離れを達成した、従属的であった、と千差万別である。
更に信長の対朝廷政策を評価する好材料として、天正10年本能寺の変の直前に朝廷側が織田信長を「太政大臣か関白か将軍か」に推任した「三職推任」があったが、その解釈として新たに、朝廷側からの推任ではなく信長側からの要請で行われたものではないかとの考え方も出されるなど、その解釈は定まっていない。
本能寺の変による信長の横死により、信長の全国平定後の政権構想の意図を正確に汲み取る事はできない。信長は果たして中世的権威の象徴である天皇を否定し、王権の簒奪までを意図していたのだろうか、それとも天皇・朝廷の下で、律令制度枠内で織田政権の樹立を考えていたのであろうか。
これらを論考するにあたって、三職推任、朝官への任官・辞官問題、正親町天皇譲位問題、総見寺建立における自己神格化など、諸々の検討対象がある。それぞれについて個別に検討を加えてみたいと思う。
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