織豊系城郭

− その特徴と変遷 −



 ●織豊系城郭とは?

 
 「織豊」という言葉を聞き慣れない方もいるかも知れない。これを簡単に説明するなら織田豊臣の最初の一文字をとった略語ということになる。時代区分にも織豊時代というのがあるが、以外に知られていない。その代わりに織田・豊臣が政務を執った首都に相当するであろう安土と伏見桃山の地名から安土桃山時代という名称があることは広く知られている。これは、飛鳥時代、奈良時代、そして江戸時代といった地名を用いた表記呼称と同様のものである。要するに織田信長にはじまって豊臣秀吉、更には彼らの配下にあったいわゆる織豊系大名によって完成された城郭群の総称が、その研究者の間で「織豊系城郭」と呼ばれるようになったのである。

 名称について、単純に時代で分けるのではなく、他の地域または他の勢力(戦国大名)の城郭群と積極的に区分したのには理由がある。中世城郭は、戦国時代(16世紀後半)に著しい発展を遂げたことはよく知られている。近年の縄張り研究者達の懸命な努力によって、虎口塁線竪堀などの城郭を構成する様々な要素の形態変化が指摘され、その裏付けが認められてきた。更に同時代に於いても、各地域や各勢力単位によって築城技術に大きな差違があり、それぞれに特徴がみられることも少しづつ明確にされつつある。特に先に述べた織豊系の大名が築城した城郭には他とは一線を画す際だった特徴がある。それは、何と言っても「瓦・石垣・天主」である。このことを抜きにして、この時代の城郭、織豊系の城郭は語れない。

 ●従来の研究
 ●織豊系城郭の特徴

 天下統一の進展とともに安土城の形を受けついだ織豊系城郭が列島の各地に出現していきました。織豊系城郭は、外枡形や、馬出しといった、高度に発達した出入り口を備え、石垣をめぐらしました。
 高石垣や瓦は、織豊期以降に各地の城郭で本格的に取り入れられていきました。
金箔瓦は、安土桃山時代の華やかな雰囲気をよく伝えるとともに、新しい権力と社会のあり方を人びとにはっきりと示すための装置でもあったのです。
 ●まとめ

●加藤氏
 織田系の城郭というのは、元亀年間頃を境に大きく変わってくる。信長自身もそうだが、近江の方に進出してから城の作り方が変わってきているのは事実だと思います。
 岐阜城にいる時点までは、現段階では信長が使ったと思われる瓦とか、高石垣は確認されていない。山麓部分に金閣寺みたいな建物があったという記録が残っているが、そこに至る虎口が岐阜市で発掘されている。これは大きな虎口で3m×2mぐらいの巨石が並んでいるだけで、高石垣を築くだとか、そういった技術は使っていないような気がします。
現在は偽物の城を復元してありますが、こういうものが建つようになったのが、いつのことなのかよく分かっていない。
 ただ、瓦が使われるようになったのが信忠段階だろうと考えられる。信長が織田家の家督を信忠に譲って岐阜城に入りだしたとき以降に出てくるのだろう。
ということは、織田軍の城の特徴というのは、小谷城に天守はあったのかどうかと云うことは大事なことだと思う。
 昔は、天守閣といいますが、あれはずーと新しくなって「閣」をつけだしたわけですが、要するに楼閣建築から、天守閣ができたという発想から「閣」をつけだしたわけですが、「天守」がどうしてできてきたのか、櫓を発展系でとらえていくと、それが天守になる。
 そういった技術の進歩によって櫓がいつの間にか天守になってしまった。御殿がいつの間にか天守になってしまったのか。それとも、あれそのものを信長が作り出した「突然変異体」というとらまえ方をすれば、櫓が天守になったわけではない。櫓はいつまでたっても櫓で天守にはなれない。櫓はいっぱいあって、それが全部天守だったら熊本城はそこらじゅう天守になっているはずだ。城内に天守はひとつ。
信長がルイスフロイスやパーテルオルガンチノであるとか、西洋人が持っているお城のイメージを自分の造らせたものが、安土城の天主であると考えられる。
信長配下者たちも、安土城を見て、とたんにいろいろ天守ができる。
たとえば坂本城(坂本は少し先行するが)であるとか北之庄城、姫路城のように、信長配下の武将たちはこぞって天守を造ります。それから石垣を積みます。瓦を葺きます。
 もっと面白いのは、信長が城を造れというときに、二人で共同で城を造れと命令を出していることがあります。細川藤高が確か宮津城を造るときに信長が文書で明智光秀と相談して造りなさいと命令している。ということは、ひょっとしたら信長の家来たちにとって城というのは自分の城でなかった可能性もあるわけです。信長の命令によって造らされている、その地方を押さえためだけの拠点、預かっているものという意識があったのかもしれないという気が最近しています。

●木戸氏
 近世城郭といわれている城が信長の変異体で突如生み出されたものなのか、元々ある技術力の中から育ってきたものなかというところがひとつのポイントであると思います。
 今の話の中で専門用語を含めて幾つかパーツが出てきました。たとえば天守、瓦、それと石垣、御殿、虎口、櫓等幾つかのパーツがそろって初めて城として成り立ってくるということですが、織田軍としては瓦、石垣とかというのは大事なパーツですか。
 
●加藤氏
 瓦というのは、大事だと思います。石垣も同様ですが。
ただ、石垣と瓦を織田軍団のすべての武将たちが使うことが可能だったのかというと、当時の技術者の問題、瓦を造る職人だとか、石垣を積むことができる職人たちをどれだけ動員できるのかと云うことによって、かなり違ってくると思います。
おそらく、それほどたくさんの数の技術者を動員することは不可能だったろうと思います。
安土城を造りながら、同時に並行して坂本城を造ることができるのかと聞かれたら、それはおそらくできないでしょう。また秀吉が大阪城と平行しながら聚楽第、伏見城を造ることをしていますが、それはその間に技術革新があったためで、たぶん織田段階では同時多発に二つの城、三つの城は信長自身の手によって造ることは出来なかった。信長が造れる城はたあひとつであった。そのほかの部将にとっては、自分の城をひとつ造るだけですから、そのときの技術者をどうするのかという問題はあったにしても、少なくとも光秀,羽柴秀吉,柴田勝家等、当時織田家の中で重要とされていた人物たちが造った城には瓦もあるし、石垣もとりあえずある。ということでかなり重要なパーツであったと思います。
 ただ、中には前田利家が越前府中に行った時の柴田の与力である府中三人衆の城にも瓦と石垣が見られるものがある。ということは、どの程度の地位であるかは分からないが、信長に認められれば瓦と石垣使うことができた。
 

 文責:研究員 雷蔵

参考:『織豊城郭』創刊号 織豊期城郭研究会(1994)              
収録論文「織豊系城郭の特質について −石垣・瓦・礎石建物−」中井 均