小牧山城

− こまきやまじょう −
 使用時代  永禄6(1563)年 〜 永禄10(1567)年
 信長年齢  30歳 〜 34歳
 築  城(完 成)  永禄 6(1563)年
 廃  城  永禄10(1567)年
 所  在  愛知県小牧市

築城目的

 永禄6年(1563)、織田信長はそれまでの居城であり尾張の中心でもある清洲から、迷うことなくこの小牧山に城を築いて移転することを決めます。信長の父信秀も自分の居城を何度も移したことで知られていますが、信長の場合のこの小牧山城に関しては、多くの城の中でも、他とは全く異なった意味合いのある城と言えるかも知れません。それは、美濃斎藤氏の居城である稲葉山城(井ノ口城)を攻略し、美濃を併合するという大きな目的のためだけに築かれた城であるという点です。その証拠に、永禄10年、信長は、美濃の稲葉山城(岐阜城) を攻め落とすと、すぐさま稲葉山のある井ノ口を”岐阜”とその名を変え、自らの居城も岐阜城と改めてそこへ移ってしまいます。この小牧山城は、稲葉山城の攻略、美濃攻略の拠点としての使命を果たし、僅か4年で廃城となったのです。

 また、信長の居城移転については、父信秀と明らかに異なる点が幾つかみられます。それは、信秀は湊町津島近くの勝幡城から那古野城、古渡城、末盛城へと移転を繰り返しており、東へ東へと拠点を移していることが判ります。しかし信長は、正室を美濃から迎え、早い時期には父と同様に東の敵のみに対峙していましたが、1560年に桶狭間で今川氏を破ると、一気に今川領へ攻め込むことなく、三河、遠江、駿河東への興味をあっさりと捨て、それを松平元康(後の徳川家康)一人に任せてしまい、自分は義父道三の遺産を受け継ぐため、目標を美濃一点に絞ります。その為の重要な拠点がこの小牧山城であり、同族内で恭順しない犬山城の織田信清への対策もあって、父の東方移転から、信長は美濃よりの北方向への拠点移動をすることになるのです。そして、この美濃を取ると京への中間にある安土、そして京都には二条御新造を築くなど西へ、中央へと移動をして行くのです。父信秀の東方嗜好、信長の中央嗜好ということが見えるように思われます。

信長後の小牧山城

 信長が岐阜城に移った後の小牧山城は廃城となっていまいたが、その後、天正12年(1584)、豊臣秀吉と徳川家康が戦った小牧・長久手の 合戦では、小牧山に徳川家康の主陣地が置かれ、信長の城跡に大規模な改修を加え、陣城としました。
その為、信長の築いた小牧山 城の遺構の上に家康が手を入れた陣城の遺構が重なり、現在の発掘調査では二つの時期の遺構が重複して確認されています。

 

発掘調査

 小牧山城の発掘調査は、まず昭和61年から平成元年にかけて小牧山北麓から西麓で行われ、山麓を取り巻く土塁・堀などが見つかり、搦手口では虎口が発見されました。しかし、これは永禄期(信長の時期)に存在したものではなく天正期の(家康による)ものと判明し、屋敷跡伝承地でも、永禄期には、造成工事だけが行われたのみで建物は建てられなかっ たこと等も明らかになりました。
 
 また平成10年から始まった旧小牧中学校用地の発掘調査では、木津用水(江戸時代初期に開削)に接する二か所の虎口の調査 が行われ、虎口の前面または内部に深さ3.5mもの急傾斜の堀が発見されました。その深さからも、当時の城の出入口が極 めて厳重に防御されていることがうかがい知ることができます。また、天正期の土塁の下からは、永禄期の堀が発見され、山の東麓では信長の時代に武家屋 敷が存在した可能性も指摘されました。


 信長が築いた小牧城下町

 織田信長は清洲城から居城をこの小牧山に築いて移ると、すぐに原野であった小牧山の南麓に城下町を建設したようです。近年の研究では、明治時代の地籍図や江戸時代の村絵図などを使って、上図のような町が計画的に築かれ、永禄10年、信長が美濃の稲葉山城(岐阜城)に移るまで小牧は尾張の中心を占めたと考えられてきました。

 平成7年に行われた小牧中学校用地の発掘調査によって城下町の存在が実証されました。規則的に配置された溝を各所で発見し、明治の地籍図に見られる地割は永禄年間までさかのぼることが判明しました。また、堀と土塁で囲まれた一辺が40m程の方形の武家屋敷群を発見し、その南側では下級武士団か商工業者が居住したと推定される地割も発見しました。
 
ここからは永禄期の瀬戸美濃産陶器や土師器が多量に出土し、多数の人々が生活していたことがわかります。調査地点は城下町の東部に位置し、このあたり一帯は廃城に伴い、町も移転したことが明らかになりました。


 しかし、城の移転後も城下町の西部では町の一部が存続し、文禄3年(1594)には家数が105軒であったという記録も残っています。この町は江戸時代の初めに小牧山の東に移転し、木曾街道の宿場町として整備され、この地方の中心的位置を占めるようになります。これが現在の小牧の中心市街地で、小牧の町は信長の城下町から発展したといえるのです。

 小牧山には永禄6年(1563)に織田信長によって造られ、天正12年(1584)に徳川家康によって大改修された織豊期の城郭が良好な状態で残っています。発掘調査は、麓の一部で実施されただけですが、地表観察から小牧山城を概観してみましょう。


 小牧山城の範囲は、小牧山全体に及びます。麓を取り囲む土塁と堀の内側が城域になります。現存しませんが、江戸時代には木津用水の東側にも土塁があり、ここも城域に含まれていたとみられます。

 小牧山城は、上の図のように5地区に区分できます。
 歴史館の建つ山頂付近を中心とする
主郭地区と山頂から西へ伸びる尾根上の西側曲輪地区の2地区は、中腹の堀(または堀相当の平地)で防御され、尾根を切断する堀と土塁で区分されています。主郭地区は城の中心で、西側曲輪地区は主郭地区を西側から防御する役割を持ったとみられます。
 南斜面の中腹の堀から麓にかけての
大手曲輪地区には、「桜の馬場」など比較的規模の大きな曲輪が分布しています。永禄期の城は、南側に大手口があり、大手道は直線的に斜面を登り、右折れして主郭地区に入っていきます。この大手道に沿って、曲輪が分布します。また、北西部の谷筋の西側谷地区にも曲輪が分布しています。
 麓をめぐる堀・土塁の内側の
帯曲輪地区には、細長い曲輪が山全体を取り囲んでいます。北から東は幅が広く、西では幅が狭く、小牧・長久手の合戦の際、秀吉軍の布陣に対抗して城を改修し、北から東にかけて多人数の軍勢を収容した様子がみられます。
 また、天正期の城は5か所に虎口(城の出入口)があったとみられます。