小牧山には永禄6年(1563)に織田信長によって造られ、天正12年(1584)に徳川家康によって大改修された織豊期の城郭が良好な状態で残っています。発掘調査は、麓の一部で実施されただけですが、地表観察から小牧山城を概観してみましょう。
小牧山城の範囲は、小牧山全体に及びます。麓を取り囲む土塁と堀の内側が城域になります。現存しませんが、江戸時代には木津用水の東側にも土塁があり、ここも城域に含まれていたとみられます。
小牧山城は、上の図のように5地区に区分できます。
歴史館の建つ山頂付近を中心とする主郭地区と山頂から西へ伸びる尾根上の西側曲輪地区の2地区は、中腹の堀(または堀相当の平地)で防御され、尾根を切断する堀と土塁で区分されています。主郭地区は城の中心で、西側曲輪地区は主郭地区を西側から防御する役割を持ったとみられます。
南斜面の中腹の堀から麓にかけての大手曲輪地区には、「桜の馬場」など比較的規模の大きな曲輪が分布しています。永禄期の城は、南側に大手口があり、大手道は直線的に斜面を登り、右折れして主郭地区に入っていきます。この大手道に沿って、曲輪が分布します。また、北西部の谷筋の西側谷地区にも曲輪が分布しています。
麓をめぐる堀・土塁の内側の帯曲輪地区には、細長い曲輪が山全体を取り囲んでいます。北から東は幅が広く、西では幅が狭く、小牧・長久手の合戦の際、秀吉軍の布陣に対抗して城を改修し、北から東にかけて多人数の軍勢を収容した様子がみられます。
また、天正期の城は5か所に虎口(城の出入口)があったとみられます。