| 軍 | 事 | ■ | 研 | 究 | 室 |
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| 1 | 斎藤道三救援 | 弘治2年4月20日 | 斎藤義龍 |
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稲葉山城落城は?
ついに稲葉山城は落城するわけであるがその年代について二説存在する。信長公記では八月十五日とあるだけで正確な年代は乗っていない。『美濃国諸旧記』では永禄七年(1565)とされている。しかし、1889年山梨県で発見された『中島文書』は斎藤家の四家老(安藤守就、日根野弘就、竹腰尚光、氏家卜全)の連署状であり、日付は閏八月となっている。そのためにこの文書は永禄九年に書かれたものであると特定でき、この時点で斎藤家が健在であったことがわかる。永禄十二年に来岐したルイス・フロイスの書簡では二年前に岐阜城を落としたとあり、『信長公記』の巻一「信長御入洛十余日の内に五畿内隣国仰せ付けられ、征夷将軍に備えらるるの事」において、
同(九月)十二日に、かけ上させられ、佐久間右衛門木下籐吉郎、丹羽五郎左衛門、浅井新八に仰せ付けられ、箕作山の城攻めさせられ、申の剋より、夜
に入り攻め落とし訖んぬ。
さる程に、去る年、美濃国大国をめしおかれ候間、定めて、今度は美濃衆を左手へ夫兵に差遣はさるべしと、みの衆存知しところに、一円御構いなく、御馬
廻りにて箕作を攻めさせられ、(後略)
とあり、箕作城攻略が永禄十一年のことであるために美濃が攻め落とされたのが永禄十年であることがわかる。
日付は?
上述した通り、『信長公記』によって八月十五日に落城とされているが、『瑞竜寺紫衣輪番世代』では九月に信長が攻め入ったとの記述があり、実際の落城は九月のことであったと思われる。
おわりに