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個別合戦研究室
 Okehazama

尾張統一戦
 桶狭間の戦い


桶狭間の戦い

『桶狭間の戦い』主要データ

時   期
 永禄三年(1560)五月十九日

信長方兵力
 約 2,000

敵 対 勢 力
 今川義元

敵 兵 力
 約25,000 〜 約45,000


はじめに

 戦国ファンでであるか否かにかかわらず「桶狭間の戦い」という言葉を聞いたことのない日本人はまずいないだろう。それほどこの戦いは有名である。しかし、反比例するかのように、この戦いの実態については解らないことが非常に多い。巷では、多くの戯曲や小説の類に先導される形で確固たるイメージが固定化されつつあるが、その真実の姿は解明されることなく放置されたままではないかと思われてならない。
 最近は、歴史小説家のif的な創作だけでなく著明な研究家もこの戦いについての見直し作業を進めているようだ。それらの成果を十分に吸収させて戴き、ここに桶狭間の戦いについてまとめてみたい。

タイムスケジュール

今川義元の兵が駿府を出発してから桶狭間の合戦が終わるまでの時間的な経過を表にしてみます。

日 付

時 刻

 出来事 および 解説 

出 典
 永禄三年  

五月 十日 

  今川軍の先鋒隊(大将:井伊直盛松平元康)駿府を出発。 『治世元記』
『朝野舊聞ほう藁』

一説には義元本隊の出陣した日ともいう。

『伊束法師物語』

五月十二日 

  義元本隊(駿河衆)の出陣。そのまま藤枝に宿泊。

五月十三日 

義元本隊、掛川まで進む。(掛川城に宿泊か?)

まずは信長公記の要約です。
信長は今川方の鳴海・大高両城を包囲する形で砦を構築。今川義元が尾張へ出兵。
戦いの前日、大高城を包囲していた丸根山砦、鷲津山砦から翌朝攻撃を受けそうである旨連絡が入る。
信長は軍議を開かず、諸将を帰宅させる。
戦いの当日の早朝、丸根山砦、鷲津山砦から救援の要求が出るや否や清洲城から前線に向け出 陣。〜人間五十年・・・〜
熱田到着の頃、丸根山、鷲津山両砦が落とされたようで、煙が上がる。
鳴海城の東に位置する善照寺砦で兵を集結。この頃四万五千を率いる義元が桶狭間山にあることを確認。義元は謡をうたわせる。
千秋、佐々隊三百が義元めがけ突撃、撃退され、義元は更に謡をうたわせる。
最前線となった中嶋砦へ移動。このときの兵は二千弱。「敵は大高城包囲網を突破して疲れている。こちらは新手。」と言い、更に桶狭間山へ向け進む。
既に前線では戦闘が始まり、桶狭間山の麓まで達したときに豪雨が東へ向け降ってくる。この豪雨で二〜三人が手を繋いだ位の太さの楠がなぎ倒された。
豪雨が収まり晴れてきてから、信長は総攻撃を指示。義元の旗本が次第に減ってゆき、首を挙げる。
桶狭間の戦いの年が間違って記載されている信長公記のこの記述を鵜呑みにするわけにはいけませんが、公記以外の史料は更に程度が悪いため、人数は別にして戦いの流れは一番信用のおけるものと思います。

上記公記の記述から、奇襲とは読みとれませんし、私は奇襲とは思っていません。どちらかというと正面攻撃ですね。信長の勝因としては、今川方の兵の分散(大高城救援、大高〜熱田への水軍派遣など)、士気、兵の疲労度、地の利、信長が機をみるに敏であったこと、そしてなにより天佑とも思える豪雨であったと思います。:会長(97.11.7.)

義元西上の理由

 桶狭間の合戦が勃発するその背景について考えてみたいと思う。
駿河・遠江・三河の三国を領有する今川氏にとって、尾張への侵攻にはどのような意味があったのだろうか?
今川義元が尾張東南部へ侵入し桶狭間の合戦となった一連の軍事行動については、ごく一般的な上洛を目指していたとする説や、尾張一国を制圧することが目的であったという説、更には単純に隣国同士の境界争いではないかというかなり狭い地域での境界紛争説まである。この義元西上軍事行動の真意はいったい何だったのだろうか。
 最も一般的に流布している説は、今川氏が足利氏の流れをくむことから、没落気味の足利氏を助け室町幕府を再興し全国に号令するため、上洛する意志があったのではないかとする説である。まず、この上洛説について考えてみよう。

上洛説

 今川家というのは、先にも述べたように「御所が絶えれば吉良がつぎ、吉良が絶えれば今川がつぐ」という伝承が伝えられていた家柄である。御所(室町将軍家)である足利氏が弱体化してしまった戦国期には、その将軍家を補佐する、または代わりに天下に号令をすること考えたとしてもおかしくはない。加えて、義元は「東海一の弓取り」と誉れも高く、駿河・遠江・三河という広い領地を支配下に置いている。

尾張制圧説

 次に「尾張制圧説」について考えてみます。

境界紛争説

 最後に、「境界紛争説」について考えてみます。
 実は、今川氏と織田氏との紛争というのは、信長の父・信秀の頃から何度も繰り広げられています。信秀は一時的ではあるものの三河の西半分を制圧した時期もあった程です。しかし、信秀の晩年(死の数年前頃)になると、今川氏が少しづつ巻き返しをはかり、三河の土着の勢力を味方に組み込むことに成功し、勢力範囲を大きく押し戻します。信秀が他界すると、義元はそれを契機として一気に尾張東南部を本拠とする山口らの調略に成功し城ごと手に入れることになります。
 こういった経緯を見直してみますと、長年にわたって争っている織田氏を一度の野戦に於いて全滅させ、その領土を完全に掌握し、更には美濃、伊勢、近江といった国々までもを跳び越えて京へ上ることが出来たのでしょうか?桶狭間の合戦によって総大将である戦国大名が命を落とすという、あまりに劇的なドラマが起こった現実からの反動で、その軍事行動の真意さえも劇的なものとして誤って伝えられてきてしまった可能性は非常に高いのではないでしょうか。

 また、今川義元は駿河・遠江・三河の三国を領有する大戦国大名で、織田信長はようやく尾張一国を平定したばかりの田舎大名というイメージがあり、その国力比較にも誤ったイメージが伝えられているように思われます。あいにく同時代の資料はないものの、豊臣時代の検地高を比較してみると、尾張一国の石高は57万2千石になります。そして義元が領有する駿河(15万石)・遠江(25万5千石)・三河(29万1千石)の三国を合わせますと69万6千石となり、双方の差は12万4千石でしかありません。伝えられるような10倍にも及ぶ戦力差があるとは思われないのです。

義元は今では義元の目的は尾張制圧(或いは信長の鳴海・大高城包囲に対する後詰め)であったとの見方が支配的です。

★義元は、桶狭間の合戦の前年にあたる永禄2(1559)年3月に軍規を定めています。(集古文書)これは何を意味するのだろうか?

信長の諜報戦

家康との同盟

永禄三年(1560)五月十二日、今川義元は尾張へ向け駿府を出陣。元康は先鋒を命じられる。義元は藤枝・掛川・曳馬(浜松)・吉田・岡崎に泊して、十七日に知立に着陣する(『三河物語』)。「東照宮御実紀」には、このとき元康が生母水野氏を訪問したことが記されている。

「東照宮御実紀巻二」(吉川弘文館)より
「幸に今度尾州へ御出陣ましますちなみに。阿古屋へ立よらせたまはんとて。懇に御消息ありしかば。
御母君よろこばせ給ふ事大方ならず。此久松は水野が旗下に属し織田方なれど。御外戚紛れなき事なれ
ば。何かくるしかるべきとて。その用意して待ち設たりしに。 君やがてその館にましまして御母子御對
面ましまし。」

中村孝也氏は「公はこのたびの西征に先鋒部隊を率いて尾張に入ったのである。この機会を逸することなく、母に会いたいと思いたっては矢も楯もたまらず、万難を排して阿古屋を訪問したのである。」(『家康傳』)と、これを肯定されている。事実であれば、実の母親とはいえ、合戦前に敵方を訪問していることになり、興味深い。義元の許可は得ていたのであろうか?

十八日、元康は義元より、鵜殿長照の守る大高城へ兵粮を運び入れることを命じられる。大高城は織田方の鷲津・丸根両砦によって封鎖されており、容易なことではなかったと思われるが、元康は無事に兵粮を運び込む。さらに翌十九日早朝、元康は丸根砦、朝比奈泰能は鷲津砦を攻撃する。

織田信長はこの報を受け、直ちに清洲を出陣、熱田を通って善照寺砦に入った。一方、元康が丸根砦を陥落させたとの知らせを受けた義元は、元康に大高城の守りを命じ、自身は桶狭間山に布陣した。信長は中嶋砦に進軍し、さらに東進して今川軍を攻撃したところ、今川軍は総崩れとなって退却し始めた。義元の旗本も退却するが、織田軍に捕捉され、義元は討死した。

元康は、大高城で義元討死の情報を得たものの、「何方よりモ聢トシタル事無内ハ、兎角に退カせラレ間敷」(『三河物語』)と言って、確実な情報が得られるまでは動かず、さすがに慎重な様子が窺い知れる。翌二十日、元康は岡崎まで兵を引き、岡崎城近くの大樹寺に兵を収めた。そして、岡崎城中の今川軍が駿河へ引きあげたのを見届けて、「捨城ナラバ拾ハン」(『三河物語』)と言って、岡崎城に入り、十二年にも及ぶ人質生活から解放された。このときの譜代衆の様子を「三河物語」から引用する。

「三河物語・第二中」(岩波書店)より
「其時、御普代衆説て、扨モ扨モ目出度御事哉。拾ヶ年に余、普代之御主様ヲ遠クに置奉リて、一度岡
崎え入奉て、トテモノ走リ廻リヲ御目之前にて申度ト願イて、余国モ無獅猿之様なる奴バラ共に、折屈
み、敗ツク敗、屈み廻ル事モ、一度ハ君ヲ是え入申サンタメなり。御年六歳之時、此城ヲ御出被成、永
禄三年庚申五月廿三日、少年十九歳之御年、岡崎之御城え入せ給ふ事之目出度サト申て、説申事無
限。」

【現代語訳】
このとき、御譜代衆は「さてさてめでたいことである。十年以上もの間、譜代の御主君を遠くに御置き
して、一度は岡崎に御入りいただき、折角の働きぶりを御目にかけたいと願って、異国にも聞いたこと
のない獅子猿のような奴らに、折れ屈み、はいつくばっていたのも、一度は御主君をここへ御入れする
ためだった。御年六歳のとき、この城を出られて、永禄三年五月二十三日、御年十九歳の青年になら
れ、岡崎の御城へ御入りになられることのめでたいことよ」と言って、喜ぶこと限りなかった。

今川氏の末路

まとめ

解 説

解 説 文

 今川軍先鋒隊  この時の先鋒隊は、比較的新しく今川勢力下に組み込まれた外様勢力である三河・西遠江地域のの軍勢が今川氏への忠誠度を試す形で組まれたと思われる。
 大将は井伊直盛、その他には松平元康(1000騎『朝野舊聞ほう藁』)

 井伊直盛(いい・なおもり  遠江国、井伊谷城(静岡県引佐郡引佐町井伊谷)の城主。井伊氏は、平安時代の昔から遠江国の井伊谷を本拠にしていた豪族で、南北朝時代には、後醍醐天皇の皇子宗良親王を擁して、今川義元の先祖である今川範国・範氏と戦っている名族であり、室町時代に於いても国人領主制を展開し、今川氏に服属するようになったのは永正十一年(1514)のことであった。今川家家臣団の中では新参の外様という位置づけであり、今回の桶狭間合戦への出陣は新参外様者として今川家への忠誠度が試される場でもあった。最後に家康の重臣で「徳川四天王」の一人として数えられる井伊直政も、幕末の大老・井伊直弼も、ともにこの直盛の養子直親の子孫である。(↑戻る
 松平元康(まつだいら・もとやす  後の徳川家康。三河国岡崎城(愛知県岡崎市)の松平氏の当主で、当時は松平領が今川氏の保護下に属していたため先鋒を命じられている。また、今川義元から「元」の字を下賜されて元康と名乗っていた。元康はこの時19歳。(↑戻る

参考

 

タイトル

著 者

出版社
1 戦史ドキュメント 桶狭間の戦い

小和田哲男
 学研M文庫
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