鉄炮

 鉄炮の伝来

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鉄炮の伝来


鉄炮と紀州の傭兵集団
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1543年、種子島に伝わった2挺の鉄炮が戦国期の合戦を大きく様変わりさせました。ここでは優れた射撃術と多量の鉄炮を駆使して戦国期にその名をとどろかせた傭兵集団・紀州雑賀衆と根来衆、さらにもう一つの有力地侍集団湯川衆についても、少しご紹介します。


鉄炮伝来

 写真は紀伊国の中心・和歌山城
 戦国中期までは、力量に優れた侍大将同士が「やあやあ、我こそは・・・」と大音に名乗りを上げ、華々しい一騎討ちを行うといったような戦いが多かったようだ。しかし鉄炮という新兵器の出現でそれは大きく変わった。ご存じのように世上に名高い「長篠合戦」では、天下無敵の武田騎馬軍団が織田・徳川連合軍の三千挺の鉄炮隊の前に、無謀な突撃を繰り返して全滅に近い敗北を喫してしまう。
 また織田信長の全盛時と言っても良い時期に行われた石山合戦では、その織田軍が本願寺の鉄炮隊の前には塀ひとつ崩すことさえ出来なかったのである。ではその「鉄炮」なるもの、どのように我国に伝わってきたのだろうか。

 天文12(1543)年8月25日、大隅種子島の南端・西之村の小浦という所に、100人ほどの南蛮(ポルトガル)商人の乗った一隻の船が強風により漂着した。代官より報せを受けた島主の種子島時堯(ときたか)はこれを赤尾木湊に曳航させ船主と会ったところ、乗組員の中にいた商人が見慣れぬ鉄の棒(鉄炮)を持っているのを見つけた。
 言葉は通じなかったが、これが欲しくなった時堯は乗組員の中に五峰という中国人がいたことから彼を通訳として筆談で話を進め、高価にもかかわらず二挺の鉄砲を購入したという。ともあれ、こうして二挺の鉄砲が種子島時堯の手に入り、彼はこれを「稀世の珍宝」として家宝にしたという。これが鉄炮伝来の瞬間であった。

鉄炮の伝播

 当然の事ながら種子島時尭は自領で鉄砲の複製を造ろうと考え、刀鍛冶・八板金兵衛清定と篠川小四郎にその製法や火薬調合法を学ばせ、ついに1545年複製に成功した。これが国産の鉄炮第一号である。
 そしてこれをいち早く聞きつけて行動に移した二人の人物がいた。一人は後述する紀州那賀郡小倉荘領主の津田監物算長(かずなが)、もう一人は堺の商人橘屋又三郎である。津田監物は直ちに種子島に渡って二挺のうちの一挺を入手、また橘屋又三郎は自身現地の八板金兵衛のもとに弟子入りしてその製法技術を持ち帰ったという。つまり鉄炮は、本州ではまず紀州根来と泉州堺に伝播したわけである。

 根来に鉄炮を持ち帰った津田監物は、ただちにこれを根来西坂本の芝辻鍛刀場・芝辻清右衛門妙西に複製を命じ、1545年に紀州第一号の鉄炮が誕生したという。そして監物の弟で根来寺の子院「杉ノ坊」の院主である津田明算(みょうさん)に命じて武装化を進めていった。これが鉄炮傭兵集団・根来衆の発祥となる。
 堺では橘屋又三郎が鉄炮の製造に着手、後に「鉄炮又」と呼ばれる大商人となる。また上記根来の芝辻清右衛門が後に堺に移住したこともあり、堺は一大鉄炮生産地として知られるようになる。

 もうひとつ、鉄炮といえば近江坂田郡国友村の存在を忘れるわけにはいかない。この国友村でも1544年2月、将軍足利義晴が管領細川晴元を通じて国友村の鍛冶善兵衛に鉄炮の制作を命じ、半年後に二挺の鉄炮を献上させたと伝えられているが、これはどうも信憑性に欠けるというか疑問点がある。
 というのは当時の国友村は浅井氏の領内にあり、ほとんど無力化している足利将軍義晴から当主の浅井氏を通さずに国友村に直接命令を下すことなどあり得ないと思われるからである。
 しかし国友村はやがて織田信長の武将であった長浜城主羽柴秀吉が、国友藤二郎なる人物を抜擢して国友河原方代官に任命することにより、織田政権下において鉄炮の一大生産地として機能していくようになる。これが事実上の国友村の鉄炮生産地としての発祥ではないかと思うのである。

 各地の発祥はどうであれ、鉄炮は次第にその数を増し、中央では石山合戦から長篠合戦へと本格的な「鉄炮戦」の時代を迎えることになる。

根来衆とは
 写真は戦火から残った国宝・根来寺大塔
 根来衆の本拠・根来寺は上にも少し書いたように、1140年に高野山からこの地へ移った興教大師覚鑁(かくばん)上人が開いた。葛城連峰の懐にある36万坪の広大な敷地に建てられた、新義真言宗三大道場の一つとして知られる名刹である。現地に足を運ぶとわかるが、複雑に入り組んだ石垣などもあり、寺というよりどこか「要塞」といった感じを受ける。

 戦国期の紀州は高野山を筆頭に、熊野三山・日前(ひのくま)宮・国懸(くにかかす)宮・根来寺等の大寺院の勢力が強かったため、守護畠山持国の力が衰えた後、紀州全体を統治する戦国大名は出現しなかった。そのため各土豪たちが惣を作って割拠するという、甲賀や伊賀と似た状況下にあった。紀北地方の根来では根来衆と呼ばれる武装集団がいたが、その中心として活動したのが津田一族である。

 さてこの根来衆、その組織はどうなっていたのかというと、大きく分けて学侶(がくりょ)方と行人(ぎょうにん)方に分かれる。学侶方は読んで字のごとく仏道に深く帰依し学問を追究することを目的とした集団であり、これに対して行人方は寺内外の雑役や防衛をその任務としていた。つまり僧兵武装集団・根来衆はこの根来寺行人方のことである。
 根来寺には杉ノ坊・岩室坊・泉識坊(せんしきぼう)などの多数の子院があり、中でも最大の勢力は前述の津田明算率いる杉ノ坊であった。しかしこれらの根来衆は一枚岩ではなく、雑賀衆とも深くまた複雑な関係があったようである。例えば泉識坊の門主は雑賀衆の重鎮・土橋平次であったり、石山合戦時にも各勢力ごとの利害に応じてあるときは織田方に、またあるときは本願寺方にと雑賀衆を含めて複雑な動きをしたため、傭兵集団として見られるようになったのであろう。

 傭兵集団としての根来衆は、1585年の秀吉の紀州攻めをもってその終焉を迎える。最後の最後まで根来衆を率いて秀吉勢に抵抗して悩ませた末、ついに同年3月21日、その大軍の前に力尽きて増田長盛に討たれた杉ノ坊照算(しょうさん)は、監物算長の二男で砲術自由斎流の祖として知られる津田自由斎その人である。

津田監物について

 この根来津田一族は、河内国交野郡津田城主で楠木正成の末裔を自称する、津田周防守正信の長男算長(かずなが)が監物丞を称して根来小倉荘に居を構えたことから起こった。なお「算長」を「さんちょう」と読む場合もある。また、この通称「津田監物」は世襲されており、算長の嫡子算正や次男照算、孫の重長も「津田監物」を称しているようだ。ところで、これには算長が杉ノ坊覚明の弟であるとする異説もあるのだが、ここは現地根来にある岩出町民俗資料館の見解を採用させていただくことにする。

 さて、津田監物算長は鉄炮の製造に成功した後、根来衆の中心的統率者として存在し、世上に名高い砲術津田流の開祖となり、永禄11(1568)年12月22日に69歳の生涯を閉じる。なお算長の弟で前述の杉ノ坊明算はこれに先立つ永禄元(1558)年に歿しているので、津田流は算長の2人の子算正と照算に引き継がれ、照算は独自の工夫をこれに加えて砲術自由斎流を興し、天正十三(1585)年の秀吉による紀州攻めまでの間、杉ノ坊ひいては根来衆全体の統率者として存在した。

 なお、砲術流派はこの津田流の後、程なく稲富祐直一夢による稲富流の出現とともに各地に順次発生してくるのだが、中でも田付兵庫助景澄の田付流、井上九十郎外記正継の外記流(井上流)、米沢藩の丸田九左衛門盛次の霞流、関八左衛門文信の関流などが著名である。

雑賀衆とは

 雑賀衆とは、紀ノ川下流域に拡がる一帯(今の和歌山市と海南市の一部を含む地域)を本拠とする地域連合惣的な集団の総称で、戦国期には優れた水軍と多量の鉄炮を持ち、その高い戦闘力から「雑賀を制する者全国を制す」と呼ばれるほどであった。
 雑賀衆の構成は、五緘(からみ=「搦・組」とも書く)と呼ばれる雑賀荘・十ヶ郷・宮(社家)郷・中郷・南(三上)郷の各惣から成り、それぞれに統率者が存在し、合議制による自治を進めていた。また、雑賀衆は一枚岩の強固な団結により織田信長と戦ったと思われがちだが、実際はそうではなく、実に複雑な行動をとっているのである。

 その理由は大きく分けて二つある。一つは宗教の問題である。浄土真宗の開祖当時は紀州全体で5ヶ寺しかなかったのが、蓮如上人の時代には雑賀荘だけで43ヶ寺、紀州全体で64ヶ寺になり、顕如上人の時代になると雑賀荘だけで96ヶ寺、紀州全体では146ヶ寺という爆発的な広がりを見せるが、これは主に雑賀荘と十ヶ郷におけるものであり、他の「三緘」と呼ばれる宮(社家)郷・中郷・南(三上)郷では新義真言宗・根来寺の影響が強い面がある。
 つまり、雑賀衆=浄土真宗(一向宗)とは簡単に結びつけるわけにはいかず、実際「雑賀三緘衆」は根来衆と行動を共にすることも多かったのである。これは一部の根来衆にも言えることで、雑賀衆と行動を共にする場合もあったことから、ますます外からは「傭兵集団」のイメージで見られていたのであろう。
 第二は、その立地から来る生活経済基盤の違いである。海に面した場所を本拠とする雑賀荘・十ヶ郷は「海賊門徒」と呼ばれていたように強力な水軍力を持っていたことから、漁や薩摩などとの交易でその財源を支えていた。『昔阿波物語』にも「紀州の者は、土佐前を船に乗り、さつまあきない計仕る」という文言が見える。これに対してやや内陸部に位置する「雑賀三緘衆」には水軍力がなく、その代わりに肥沃な土壌からの農業生産収入がその主な財源であった。加えて何より位置的に根来寺に近かったことから、根来衆と交流があり行動を共にした場合が多かったようである。

 そして「雑賀鉢」の鉄兜で知られるように、雑賀の地には高度な鉄の鍛造技術があった可能性が高いことから、根来衆と協力して鉄炮の所有数を増やしていったのではないだろうか。また雑賀衆は、前述のように交易や海賊行為もしていたであろうから、金銭的には比較的裕福だったと見られ、堺あるいは薩摩などから買い付けたものも合わせ、数千挺の鉄炮を揃えていったのではないかと推測される。

鈴木一族と石山本願寺

 写真は現在の雑賀崎
 戦国期の雑賀衆の中で著名な人物はというと、鈴木氏・土橋(つちはし)氏・太田氏らの名前が挙げられるが、やはりその中でも佐(左)太夫率いる鈴木氏が筆頭であろう。そこで、鈴木氏について少し述べてみよう。

 鈴木氏は紀伊北部の土豪で、佐(左)太夫のとき和歌浦妙見山に雑賀城を築いてそこを本拠とした。鈴木氏の祖先は熊野八庄司の一族・鈴木庄司であると思われ、熊野三苗の一つでもある。その家紋には、熊野の神鳥で神武天皇東征時にその道案内をしたと伝えられる、三本足の八咫烏(やたがらす)が使われている。また『紀州七郡地士名寄帳』によると、古くは「鈴置」と書いたが、中世になって「鈴木」に改めたとある。一説によると、現在の鈴木姓の諸氏は、この熊野鈴木氏をもってそのルーツとするともいう。

 石山合戦が終結し、顕如上人が石山の地を明け渡して紀州落ちしてきたときに自領の鷺森(さぎのもり)道場に迎えたり、顕如の子・教如上人を雑賀崎の洞窟に匿ったりしていることからも、鈴木氏が熱心な浄土真宗の信者であったことが窺える。なお、鷺森道場の主殿は天正二(1574)年に建てられたもので、場所は和歌山市鷺森(現在の南海和歌山市駅東側)にあったのだが、昭和二十(1945)年7月9日の空襲で全焼した(現在は再築され本願寺鷺の森別院となっている)。洞窟の方は「鷹ノ巣洞窟」または「上人洞窟」と呼ばれ、雑賀崎突端の高さ80mにも及ぶ断崖絶壁の蔭にあり、今では和歌山県の重要文化財として天然記念物に指定されている。
 そして、本願寺顕如と織田信長の石山戦争では、複雑な動きをとった他の雑賀衆や根来衆とは一線を画し、鈴木一族は一貫して本願寺方に加勢して戦い抜くのである。また孫一道場蓮乗寺には、危機に直面して信徒に決起を促す顕如上人直筆の書状が残っていることからも、本願寺も鈴木一族にはかなり信頼を寄せていたものと思われる。

 鈴木佐太夫には三人の子があったとされるが、不詳である。重朝・重秀・重次・義兼などの名が挙げられるが、一部同一人物である可能性も高く、生没年なども含めてその実体はよくわかっていない。ただ言えることは、佐太夫が本願寺に加担して石山合戦に兵を送り、その鉄炮の威力で織田信長軍をさんざんに苦しめたことは間違いない。そしてその鉄炮集団を率いて活躍した頭領の名を「雑賀孫一」という。

 雑賀孫一については別稿で詳しく述べるので、ここではこれ以上触れないが、雑賀衆の名を全国に知らしめたのは孫一であると言っても過言ではない。

湯川衆とは
 写真は湯川氏の居城・亀山城跡
 湯川衆とは、中紀日高郡一帯以南(今の和歌山県御坊市周辺から田辺市に至る地域)を領し、初め牟婁(むろ)郡芳養(はや)荘泊城、のち日高郡亀山城を本拠とする湯川氏一党のことを指す。
 この湯川氏という土豪は、南北朝期以来ずっと北朝方として足利氏に仕え、所領もその軍功などで足利氏から賜るなど、代々古いつきあいのある家柄であった。戦国期の湯川氏の当主は直光・直春で、石山合戦の際にも「湯川(河)衆」として雑賀衆・根来衆とともに「信長公記」中にその名が見えている。

 湯川氏は大永年間までは紀伊守護畠山氏に属していたが、当時の守護とは名ばかりで、その威令はほとんど行われていなかった。明応二年、足利義材方に加担した畠山政長が、河内正覚寺城で細川政元の加勢を受けた同族の義豊に敗死すると、同八年には政長の子尚順が再び巻き返しを図る義材(この時には義尹と改名していた)に応じ、父の仇とばかり起ち上がって義豊討伐に出向き、とりあえず義豊は討ち取り高屋城を奪うのだが、またもや赤沢朝経らの政元勢に敗れ、紀伊に奔って広城に拠った。

 これを助けたのが湯川直光である。永正元年には出家してト山と号していた尚順が再び兵を起こして細川氏に大勝、畠山義豊の子で河内高屋城主義英と和睦するに至る。しかし天文元年に直光は畠山氏に背いたため、尚順が討伐の兵を差し向けるが逆にこれを撃退、同三年に尚順は淡路に奔りそこで歿したという。
 さて永正三年七月、直光は尚順の子稙長の重臣山本広信の兵と切目坂・印南野で戦うが、愛洲・玉置氏らの調停により詫びを入れ和睦、後には稙長の甥高政に従って守護代を務めるなど、その信任を得るに至った。
 しかし永禄五年、高政に従い河内飯盛城攻撃の先鋒として出陣した直光は、五月二日教興寺の陣において三好摂津守の背面攻撃に遭い、多数の重臣とともに討死してしまった。そして直春が跡を継いだ。

足利義昭の来寓

 時は移って天正元年。中央では織田信長と足利義昭の対立がますます激しくなっていた。そしてこの年の七月十九日、信長は宇治槇島城に籠もった義昭を攻めて京から追放、ここに室町幕府は滅亡する。さて、追放された義昭はこの後どういう行動をとったのであろうか。

 まず彼は河内若江城、次いで堺と移り、やがて紀伊由良の興国寺にやってきた。この興国寺は湯川直春の勢力圏で、彼は足利家と代々付き合いのあった紀州の実力者湯川氏を頼って来たのである。しかし義昭は由良興国寺にはあまり長居はしなかったようで、近くの道成寺から「道成寺縁起絵巻」を取り寄せて奥書を加え、また「日本無双の縁起」と称賛して刀一腰・馬一疋を道成寺に贈った記録が残っているが、彼は程なく湯川氏発祥時の本拠・泊城に移り、ここで本宮衆玉置氏ら紀州の地侍たちに文書を発し協力を要請している。
 この泊城というのは上記にもあるように牟婁郡芳養荘(現和歌山県田辺市)にあり、もともと湯川氏の本拠であったが、義昭来寓当時は直春の伯父湯川安芸守の居城で、牟婁郡における統治拠点であった。

 ここで義昭が発した文書を紹介する。謀臣槇島昭光に書を託し、紀伊奥郡衆を動かすべく遣わしたものと思われる。

☆『玉置氏文書』(『日高郡誌』に収録)

就今度信長恣悪逆、至当國候、此刻別馳走可為感悦、為其差越孝宗候、猶眞木島玄蕃頭可申候也
(天正二年)二月六日         (義昭)判
本宮衆徒中

 信長に降伏して追放されたはずなのだが、「就今度信長恣悪逆、至当國候」とはまた過激な文言である。義昭は一年余り泊城に留まってあれこれ画策するが、直春も本宮衆玉置氏らも彼の期待したようには動かず、結局は失意のうちに紀州を去り、毛利領備後鞆の浦へと向かうことになる。

根来寺炎上・根来衆滅亡

 信長には好意的であった根来衆も、いわばその権力の継承者であるはずの秀吉には、なぜか反抗的な態度をとる。しかしこれには理由があった。根来寺は、紀伊のみならず河内や和泉の一部にもその勢力を及ぼしていたのだが、秀吉がこれらの利権を認めず取り上げようとしたためである。

 さらに、天正十二(1584)年3月に徳川家康・織田信雄との間で行われた小牧の戦いの直前には、家康の政治工作によって太田党を中心とした根来衆・雑賀衆が家康に加担しており、これが紀州征伐の一番大きな原因だったかもしれない。このいきさつは『太田総光寺中古縁起』に詳しいので引用する。この資料は元和二(1617)年に完成したもので、非常に精細かつ正確な資料だと思われる。

☆『太田総光寺中古縁起』

「同十二年甲甲、徳川家康公小牧山にて豊臣氏と御合戦あり、此時井上主計頭紀州へ御下向有て、先当寺に着き、檀徒太田左近宗正・(以下人名略)等会合せしめて、即根来・雑賀・宮郷・中郷・南郷・岸の庄是等の地士共御味方に参り候へとの御下知状を住持永意読聞せけれハ、檀徒領掌して太田より残る五組へ回文せしめて、御味方決定せしむるに、何れも同心して吉田右門・(以下人名略)是等都合三十六人、根来法師ハ泉式を先として五人、雙方四十一人日前宮へ会合して一味同心し、誓約不変の為に血判の一紙を認めて是を小牧へ奉らんとする(後略)」

 興味深いのは、この縁起は紀州側の資料だが、小牧・長久手の合戦があくまで「秀吉と家康の間」のものとして捉えられているということである。これは他の資料もそうで、本来の一方の主役は家康ではなく信雄のはずなのだが、紀州側では家康が主役と見ているのである。つまり、家康の手がこれ以前から太田党を含めて根来衆などにも伸びていたと考えられ、家康の高度な政治工作の一端をのぞき見ることが出来るかと思う。またこの資料には雑賀孫一の名はないが、『紀伊続風土記』の項には「栗村 土橋平次、平井村 鈴木孫一」の署名が見られる。孫一はこの連署状に署名したのだろうか。直後に和睦の案内役として太田城に向かっているのだが・・・。

 そして天正十三(1585)年3月10日、秀吉は紀州征伐に向かった。「先に根来寺を焼き払い、続いて太田城と小雑賀中津城を攻めよ」の号令の下、十万の大軍が紀州勢に攻めかかった。部隊編成は以下の通り(出典は『根来焼討太田責細記』、侍大将は主だった者のみの記載とした)である。

 先陣:中村一氏(三千五百)、二備:筒井定次(五千余・中に島左近の名も見える)、三備:堀秀政(一万余)、高山右近(一万)、桑山重晴(五千)、細川藤孝(二千余)、蜂谷頼隆(三千余)、堀尾吉晴(三千余)、浅野長政(五千余)、増田長盛(二千余)、豊臣秀次(一万余)、豊臣秀長(一万余)、浮田(宇喜多)秀家(一万五千)、豊臣秀吉(二万余)

 総勢十万三千五百余人という大軍である。さらに小早川隆景宛に命令を出して毛利水軍の総出動を要求し、小西行長を総大将(船奉行)に、九鬼嘉隆・仙石秀久らとともに岸和田から雑賀先方面へ向かわせているのである。これでは紀州勢がいくら頑張ったところで、勝ち目はない。

 紀州勢の前線の城(砦)は、泉州の千石堀・積善寺(しゃくぜんじ)・沢の三ヶ所である。ただし、積善寺城・沢城については明確な所在地が不明のため、『大阪府全志』の記述から場所を推定して記した。

「当国第一ノ堅城」という千石堀には根来的一坊が立てこもっており、秀吉勢は豊臣秀次・筒井定次・堀秀政・中村一氏らが攻めかかり、「根来一の荒法師」的一坊と大激戦の末に筒井勢が放った火矢で火災が起き、火薬庫に引火して大爆発を起こし、城兵千六百人が吹き飛んで落城した。余談だが、この記述中に若き日の島左近勝猛の活躍が描かれているので、いつかまた機会があればご紹介したいと思う。激闘の末に的一坊を討ち取ったのは、島左近なのである。
 積善寺砦には根来太一坊が立てこもっていたが、高山右近・中川秀政(清秀の子)が猛攻を加えたため、もはやこれまでと城内から雑賀七郎が討って出、激闘の末に中川秀成(秀政の弟)に討たれた。そして3月22日、羽柴秀長の扱いで城兵の助命を条件に開城、高山右近が城を収めた。
 沢砦には紀州の勇将・的場源四郎がいた。激戦が行われたが、さすがにここは容易には抜けなかった。しかし次第に城兵も減り防戦が不可能と見るや、源四郎は重囲を突破して本国紀州へと落ちて行った。そして3月23日、これまた羽柴秀長の扱いで城兵の助命と引き替えに開城したという(秀長が城中に宛てた書状が現存する)。

 これら前線を突破した秀吉勢は、怒濤の勢いで根来寺に攻め込んだ。迎え撃つ根来勢の先鋒は雑賀の猛将・太田左近。わずか百五十の鉄炮しかなかったが、さすがに孫一に引けを取らない雑賀の頭領、これで二万の豊臣秀長勢を一旦は敗走させるのである。しかし、あまりにも兵数が違うため、左近は程なく雑賀太田城へと退却していく。

 残るは本山、根来寺。津田監物はこの大軍を前に怖れる色もなく、より抜きの鉄炮衆五百で迎え撃った。ここから津田監物討死にまでの間を、資料(『根来焼討太田責細記』)は非常に詳細に記しているが、文量が膨大なので大筋だけを書く。監物は最後の最後まで抵抗し、寺に敵兵が乱入して白兵戦となっても戦い抜く。そしてついに増田長盛に討たれるのである。この長盛が監物を討ち取った場面が小気味よいので引用する。

 「増田ハ津田ヲ一刀ニ討倒シ、西谷延命院ト戦ヒ是モ同ク切倒ス」

 時に天正十三(1585)年3月24日(『太閤記』には3月21日とあるが)。主将の討たれた根来寺にもう余力はなく、2・3の堂宇を除いてほとんどが炎上、焼失した。この炎と共に、戦国をその優れた鉄炮軍団をもって駆け抜けた傭兵集団・根来衆も滅び去ったのである。泉識坊など一部の僧兵大将はかろうじて脱出し、土佐へ落ちて行ったという。
 わずかにこの戦火から焼け残った根来寺大塔は、現在国宝に指定され、徳川期に再興された他の伽藍と共に、根来の地にその姿を当時のまま伝えている。そしてその白壁には、当時の激しい銃撃戦の弾痕が今もなお生々しく残っている。

太田城水攻め・雑賀衆滅亡

 根来寺が炎上し、根来衆が滅亡した翌日の天正十三(1585)年3月25日、秀吉は続いて太田城の攻略に軍を進めた。早速本願寺顕如を通して雑賀孫一の案内で中村一氏を勧降の使として送り込むが、雑賀衆太田党の総帥・太田左近宗正はこれを拒絶したため、秀吉勢の総攻撃が始まった。

 先陣は堀秀政の三千、二陣長谷川藤五郎の三千、三陣前野甚兵衛の三千が猛攻を仕掛けたが、太田勢五千は近くの森やいたる所に鉄炮隊数百を伏せ、猛射を浴びせてこれを撃退する。さらに「新兵器」で秀吉勢に打撃を与えるのだが、面白いのでそのくだりを引用する。とりあえず「大意」を併記したが、現代語訳本などがなく私なりの解釈で書いたため、多少の文法的なミスがあってもご寛容いただきたい。

☆『根来焼討太田責細記』

「(前略)盛ノ中ヨリ器ノ如キ者イク仙トモナク飛ヲチ、前野カ勢ノ至ル比、忽雷ノ如ク響キ一炎ノ煙出ルト早ク鉄炮ノ如ク■ト火炎出ヅ、軍勢散々ニ岩橋川ヱ我一ニ飛入込入、大将前野ガスソニ火ツキ煙ニムセビタレシヲ前野十兵衛・石田四平ニ主ヲ助テ岩橋川ニ飛入ヲ、太田勢切先ヲ揃、岸ニ上ルヲマクリ落切倒シケレバ、討ルヽ者数シラズ(後略)」
(大意:森の中から器のような物が何千ともなく飛んで来て落ち、前野勢がその地点にさしかかった頃、突然雷のような大音響とともに煙が出るやいなや、鉄炮のように火炎を吹き出した。前野勢は散々乱れて我れ先にと岩橋川へ飛び込み、大将前野甚兵衛の裾にも火がつき煙にむせんでいたところを前野十兵衛・石田四平ニがこれを助けて岩橋川に飛び込んだ。そこへ太田勢は切先を揃えて攻めかかり、岸に上る者をまくり落とし斬り倒したので、討たれる者は数知れなかった)

 この武器は一体何だったのであろうか。今で言う「時限発火装置」みたいなもんである。ひょっとするとこの武器は、「戦国忍者考」の項で特集した百地丹波が考案したのかも知れない。彼は伊賀を落ちて紀州根来に住んでいたと伝えられるのだから。もしそうだとすると、これは面白いのだが・・・そんなわけはないか。
 ともあれ、秀吉勢は散々な目に遭い、堀・長谷川などは自慢の勇士51人が討ち取られたという。この数をよく覚えておいていただきたい。後ほどこの数が再び現れることになる。そして秀吉方は城を取り巻き、備中高松城攻めの時と同様に、水攻めにするべく準備を始めた。

 3月26日夜より十六万九千二百人もの人夫を駆り集めて築堤工事を始め、4月1日から水を流し込んだという。このときも28・29日には大雨が降ってあたり一面が海のようになったということなので、秀吉にはよほど強運がついて回ったのであろう。そして4月2日、ちょっとしたハプニングがあった。

 城中から朱柄の槍を持って一人の武者が船で漕ぎ出し、秀吉方の佐藤勢に単独で突きかかり、縦横無尽に暴れ回った者が居た。この人物、朝比奈摩仙名(ませんな)という尼法師、つまり女性だったのである。残念ながら彼女は田中久兵衛に生け捕られて秀吉の前に連れて行かれるのだが、秀吉は感心して彼女を許し、城に帰らせたとある。

 さてこの頃、雑賀城に立てこもっていた面々も、秀吉方の桑山重晴や小出源左衛門に一歩も譲らず善戦していたが、ここへ貝塚の顕如上人からの「城を明け渡せば速やかに所領を下すという秀吉の厳命である」という旨の書状が届き、守将の雑賀孫六は再拝してこれを受け、城を桑山に明け渡した。これにより、戦後程なく孫六は秀吉から平井二千石の地を与えられている。中州や関の城もこれを受けて開城したが、吹上城の土橋平次・平左衛門らはこれに従わず、激戦の末についに敗れて自刃した。

 いよいよ戦いも大詰め、太田左近も「水干し」にされて兵糧も尽き、島田新三郎に命じて蜂須賀正勝に自分の命と引き替えに城兵の助命を嘆願した。秀吉はこれを認め、引き替えに城将の主だつ者51人の首を要求した。そう、緒戦で散った秀吉方の勇士と同数の首である。
 左近は城将らと共に切腹、ついにここに至って、頑強に抵抗した雑賀衆もことごとく降伏するか滅亡した。前出の『根来焼討太田責細記』の最後は、秀吉をあざけったとも受け取れる(?)ような文で締めくくられているので、これも引用してこの稿の終わりとさせていただくことにする。

 「其夜ハ秀吉公岡平太夫殿館ニ御宿リ有テ明ル日和哥ノ浦ニ遊覧シ給フ、誠ニ目出度御大将也」

南征軍進発・湯川衆滅亡

 一般にはあまり採り上げられることのない秀吉と湯川衆との戦い。太田城開城までの秀吉の紀州攻めをもう一度日付を追って見ていくことにする。天正十三年のことである。

3月21日、秀吉が岸和田城に入り、千石堀城を落とす。畠中城の紀州勢も退却。
3月22日、秀吉勢が泉州積善寺城を開城させる。
3月23日、中村一氏が泉州沢城を落とし、城将的場源四郎は紀伊に退去。
3月24日、秀吉勢が根来寺を攻め落とし、これを焼き払う。
3月25日、鈴木孫一・中村一氏を太田城に派遣、太田宗正は降伏勧告を拒否。
3月26日、秀吉が太田城を水攻めにするため、桑山重晴を奉行に築堤を開始。
4月01日、周囲を堤で囲んだ太田城に水を引き入れる。
4月07日、紀伊粉河から高野山に使を派遣し降伏を促す一方、南征軍を発す。
4月10日、高野山の木食応其上人が老僧を伴って陣中の羽柴秀吉に対面する。
4月22日、蜂須賀正勝・前野長康を紀州太田城へ向かわせ降伏を促す。
4月25日、太田城落城。城将太田左近宗正ら51人切腹。(人数は諸説あり)

 これを見ていただけばわかる通り、秀吉は太田城攻め最中の4月7日、湯川衆らの討伐に向け南征軍を発した。他の地侍衆たちが降伏したり四散したりする中、直春は熊野衆の山本主膳らとともに敢然とこれに立ち向かう。しかし、秀吉勢は水陸から大軍で押し寄せたため直春は亀山城を焼き払って熊野へ奔り、潮見峠に拠って防戦に務めた。
 向かってきたのは仙石・藤堂・尾藤氏らの千五百騎だったが、険阻な地形と直春らの奮戦により、それ以上進めず釘付けとなった秀吉勢の旗色はやや悪く、戦いは膠着状態となり開戦から三ヶ月が経過した。
 しびれを切らした秀吉はついに直春・主膳の本領安堵を条件に和議を提案、さすがに戦い疲れた直春らはこれを受け入れた。これにより一旦秀吉勢は撤退し、ようやく南紀に静けさが戻ってきた・・・かに見えた。

 しかし、翌天正十四年、思わぬ落とし穴が待ち受けていた。同年七月に直春・主膳は秀吉方に大和にて誘殺され、その所領はすべて秀吉の公領とされてしまったのである。直春の遺臣らは、当然の事ながらこの「だまし討ち」に怒り、団結して秀吉方の代官杉若越前守が入城していた泊城を襲うが、逆に敗れて皆殺しにされてしまった。
 なお、この後しばらく杉若越前守は泊城にて南紀を治め、天正十八年になって上野山城へその拠点を移したという。(直春らの和議受け入れは天正十四年二月とする説もある)

 ここに中南紀の反秀吉勢力は一掃され、紀州全域が秀吉の手によって統一された。

5.鉄砲      その1     

 〇鉄砲という語

 天文12(1543)年、難破した異国船が種子島に漂着し、これに乗っていた二人のポルトガル商人によって日本に鉄砲がもたらされた。鉄砲という言葉も、この時に入ってきたと思われる。しかし、これを持っていたポルトガル人が、島民に聞かれて「鉄砲」と答えるはずはない。鉄砲はポルトガル語ではないからである。
 ポルトガル商人が乗っていたのは中国のジャンク船で、他の乗組員は中国人であったという。種子島の島民は、浜辺に書いた砂文字で中国人と意を通じた。漢字ならなんとかわかり合えたのである。つまり、鉄砲は中国語だった。ところが、鉄砲という語はもっと古くに日本へ入ってきている。鎌倉時代の文永の役(1274年)と弘安の役(1284年)に蒙古軍が鉄砲を使用している。このときを描いた「蒙古襲来絵詞」に「鉄はう」と書かれた武器が登場する。火薬によって鉄の玉を飛ばす道具らしい。花火筒のようなものだったが、日本の騎馬武者はこれにおおいに苦しめられている。
 NHKの歴史番組で、この「鉄はう」を、文字通り「鉄はう」と発音していたが、これは鉄砲というべきであろう。「はう」は歴史的かなづかいでは、「ほう」と発音する。さらに、歴史的かなづかいに半濁音はないから、「ぱう」も「はう」とかかねばならない。「鉄はう」は「てっぽう」と読むのが正しい。
 砲という語は、中国にさらに古くから存在した。火薬も砲も、発祥の地はヨーロッパではなく、中国なのである。砲は春秋時代の越で発明された。砲が石偏なのは、石を遠くへ飛ばす武器であったからである。鉄の塊を飛ばすようになって、鉄砲といわれるようになった。後年、西洋人が持つ銃を見て、中国人は、これ鉄砲なり、と思ったのであろう。

 〇種子島銃

 天文12年当時の島主、種子島時尭は、二万銭を払ってポルトガル商人から二丁の鉄砲を手に入れた。そして、家臣の篠河小四郎に命じて火薬の調合を研究させ、刀鍛冶の矢板金兵衛に鉄砲の製作を言いつけた。矢板金兵衛は美濃出身で、砂鉄の豊富な種子島に渡って刀鍛冶をしていた。金兵衛は苦心の末、数ヶ月でコピー銃を作り上げた。しかし、銃底部の雌ネジが作れず、焼き締めて塞いだので、不発や暴発を引き起こした。この問題を金兵衛が解決したのは翌年のことである。ポルトガル船が再び入港し、鉄砲鍛冶が乗り合わせていたため、これより雌ネジの切り方を学んだといわれる。
 しかし、この話はうますぎる。一丁一万銭もする商品の製法をポルトガル商人がやすやすと教えるはずはない。教えたとしたら、莫大な対価を払ったはずである。そこで、金兵衛の娘若狭伝説が生まれた。ポルトガル商人が、雌ネジの製法を教えるかわりに若狭を嫁にくれと金兵衛に要求したのである。父のため、若狭が泣く泣くポルトガルへ行き、金兵衛は和製銃を完成させる。
 この伝説に、堺鉄砲研究会の澤田平代表が異を唱えた。金兵衛は伝来鉄砲の雌ネジをモデルにして独力でそれをつくりあげたというのである。それは、ヤスリで削った雄ネジ(尾栓)を十分に焼き入れし、熱した銃底部に差し込み、周囲を叩いて雌ネジを刻ませる方法だった。大量生産はできないが、ピッタリ整合する精密なネジができあがった。こうしたことは、当時の刀鍛冶が持っていた基本的な加工技術だったという。
 模倣とはいえ、日本の刀鍛冶技術の優秀さが一年ほどで和製銃を作り上げた。その後の日本の工業技術の進化過程を見れば、おそらく澤田説が正解であろう。そして、それを裏付けるかのように、種子島銃の製法はまたたくまに本土へもたらされたのである。

 〇火縄銃の構造

 元栓付きの鉄の筒に導火孔が開いたもの。付属品として、火皿、火縄挟み、引金がある。火皿は導火孔に続き、ここに置かれた口火火薬に火縄挟みの火縄の火が点火し、筒内の火薬へ燃え移って弾丸を飛び出させるのである。引金は火縄挟みが火皿へ落ちる仕掛けだが、現代銃のように撃鉄式ではないから、銃身のブレが少なく、火縄銃は意外に命中率が高い。火皿には火蓋が付いていて、誤って点火して暴発しないようになっている。火蓋を切るというのは、蓋を開いてすぐに発射できるようにすることである。ここから、戦端を開くという意味にも使われるようになった。口火を切るは「言い出す」という意味に用いられる。
 さて、種子島銃の矢板金兵衛が苦心した鉄筒の元栓はなぜ必要か。筒内を掃除するために欠かせないのである。黒色火薬を使うので、硫黄が多く含まれていて、燃え滓が筒内にこびりついてしまうのだ。火縄銃は先込め式だから、かるかを使って筒先からこそぎ落とそうとしても、元の方がどうしてもうまくいかない。定期的に元栓を抜いて大掃除してやらねばならないのだ。
 ところが、いくさの最中にはそれができない。できないから、滓がどんどんたまってくる。それによって筒内が狭くなってしまう。狭くなれば弾丸を挿入できなくなる。そうなれば玉を撃てない。撃てなくても敵は待ってくれない。どうするか。より直径の小さい弾丸を挿入するのである。博物館などで、火縄銃の鉛弾が展示されていることがあるが、たいてい大きさがまちまちである。鉄砲足軽たちは、筒内の状況に応じて弾丸の大きさを選んでいたのである。むろん、暇になったら元栓をはずして大掃除した。
 後に造られる大筒には元栓がない。口径が大きいので、筒先から掃除すれば事足りるし、そんなおおきな元栓を造る技術はなかったであろう。

 〇根来と堺

 種子島銃の製造技術をいちはやく取り入れたのは根来と堺である。戦乱の時代であり、京に近い両者は最新の武器に関心が高かった。黒潮によって琉球や南海諸島と紀伊沖が一本につながっていたことも大きい。陸路よりはやく行き来できたのである。
 根来寺の鉄砲由緒書によると、杉之坊が津田監物を種子島に派遣して鉄砲の製造を学ばせた。杉之坊は根来の豪族津田氏が維持する根来寺の行人の坊院である。監物の弟の明算が坊をとりしきっていた。根来に帰った監物は、根来坂本の刀鍛冶、芝辻清右衛門に鉄砲の製造法を伝授した。尾栓の製法は前に書いたが、筒は心棒に細い鉄板をらせん状に巻きつけて鍛造する。これくらいのことなら刀を造るより簡単だという。芝辻清右衛門はたちまち大量生産に成功した。根来寺の行人たちが鉄砲の射撃技術を身につけ、やがて戦国の世に隠れなき鉄砲集団、根来衆へと成長してゆく。
 根来寺の行人坊には、近くの雑賀地方の豪族が維持するものもあり、鉄砲は雑賀衆の主要武器となり、これが一向宗と結びついて織田信長を苦しめることとなる。
 一方、堺では、やはり刀鍛冶の橘屋又三郎が種子島へ渡り、種子島銃の製造技術を取り入れた。橘屋は鉄砲又と異名をとるようになる。堺は日本で最も製鉄鍛造技術の進んだ地域であり、鉄砲の一大生産地へと変貌していく。織田信長がいちはやくこれに目をつけ、永禄11年に入洛したあと、堺を事実上支配下におさめてしまう。種子島に鉄砲が伝来してからわずか25年後のことである。以後、織田の鉄砲隊が猛威を振るい、やがて戦国史を終結へと導いていく。

 〇国友村

 根来と堺につづいて鉄砲を製造しはじめたのは、近江の姉川中流域にある国友村である。現在の滋賀県長浜市国友町で、かつて鉄砲の匠たちが住んだ白壁土蔵造りの家並みが今も残っている。ここの鉄砲博物館には多くの火縄銃が展示されていて、戦国史に興味のある人には見逃せないポイントの一つである。近くに、織田軍と浅井朝倉連合軍が戦った姉川の古戦場もある。
「国友鉄砲記」によると、国友村が鉄砲の製造を始めたのは天文十三年二月のことであった。時の将軍足利義晴が管領細川晴元に命じ、晴元が国友善兵衛ら四人の刀鍛冶に造らせた。国友善兵衛らは将軍義晴から鉄砲一丁を借り受けてこれを模し、天文十三年八月に六匁玉の鉄砲二丁を将軍に献上した。
 天文十三年というのはいささか疑わしいが、天文十八年に織田信長が六匁玉の鉄砲を五百丁注文したという記述は、織田側の資料から信憑性があるという。ちなみに、六匁玉というのは鉛弾の重さを表す。姉川合戦で浅井朝倉連合軍を破った信長は、さっそく国友村を手中におさめている。
 信長につづいて、秀吉も家康も国友村を重視し、村は長く砲兵工廠の役割を担ってきた。大阪夏の陣の頃が最盛期で、国友村には、鉄砲鍛冶七十三軒、鉄匠が五百人余いたという。しかし、徳川三百年の太平の中で鉄砲需要は激減した。村はしだいに衰微し、技術の向上もストップしてしまう。幕府は国友の技術を温存するために、毎年一定量の鉄砲を発注しつづけた。それで幕末まで息をついてきたが、西洋銃が輸入されるようになると、完全に息の根を止められ、博物館行きの運命となってしまう。

 〇弾薬の装填

 火縄銃は黒色火薬を使用する。黒色火薬は硝石(硝酸カリュウム)、硫黄、木炭の混合物である。粉状にして、ほぼ、7:1.5:1.5の割合で混ぜる。硝石は日本で産しないので輸入に頼るほかはない。戦国時代には、当時最大の貿易港であった堺が火薬の生産でも他地域を圧倒した。
 火薬は上にした筒先から決められた量を銃身内に入れ、その上へ弾丸を押し込む。かるかと呼ぶ専用の棒が鉄砲に付属している。筒先を下に向けて発射するときは、弾が転がり出ないようにさらに紙などを丸めて詰めこまねばならない。
 弾は鉛製で、重さは6匁(6X3.75グラム)が通常である。これが、30匁ぐらいになると大鉄砲となり、百匁(375グラム)を越えると大筒(大砲)と呼ばれる。匁は目とも書かれ、百目玉筒などといわれる。
 このように火縄銃は弾薬の装填に手間と時間が掛かり、速射に向かない。それでは騎馬隊による速攻に敗れてしまう。そこで考案されたのが早合(はやごう)と呼ばれる一種の薬莢だった。一発分の火薬を銃身に収まる形にして紙で包んだものである。火皿に導火用の火薬を入れる前に、導火孔に竹串のようなものを突き入れ、紙を破って点火できるようにした。
 鉄砲隊と騎馬隊の決戦といえば、いうまでもなく長篠の戦いである。そして、早合を開発したのも、戦術の天才織田信長であった。どちらが勝ったかはいわずもがなである。有効射程百メートルという鉄砲玉の威力の前に、豪勇無双の武田武士たちも次々に撃ち落とされていった。日本の銃砲の進歩は信長に始まり、信長で終わってしまった。火縄銃は戦国期のままの姿で幕末を迎えるのである。後に述べる大筒にしてもしかり。信長があと30年長生きしたら、日本は少なくとも百年は早く近代化の道を歩んでいただろう。

 〇数は力

 鉄砲の登場は、戦術ばかりか戦略にも決定的変革をもたらした。

*戦術の変化

 1.鉄砲隊による集団戦法の採用。兵力の中核が鉄砲足軽になり、
   武士の主たる任務は、刀槍をもって戦うことから、足軽を指揮して
   戦わせることに比重が置かれる。

 2.築城術の変化。中性式の山城から、複雑な郭群を構え、鉄砲狭間を
   備える平山城が主流となる。

 3.具足の進化。中世風の大鎧は矢を防ぐためのもので、弾丸はなんな
   く貫通してしまう。弾丸を防ぐために、分厚い鉄板で覆われた当世
   具足が登場する。ただし、高価なため、武将クラスが使用した。関
   ケ原で家康が着用した南蛮具足は有名。

*戦略の変化

 鉄砲は高価である。大量生産が可能になった豊臣時代でさえ、6匁玉筒が米九石に価した。当時の足軽の給料は、年間米一石八斗ほど。鉄砲一丁で九人もの足軽を一年間養えたのである。これを何千丁と装備するには莫大な経済力を要する。戦力は兵力から金力へと変化したのである。
 信長はこの点でも異彩を放つ。かれは敵国を切り従えると、以後その地を領する者から知行百石につき黄金八両の割合で矢銭を取りたてた。戦費を償って余りある額である。信長はいくさをすればするほど肥え太った。しかも、かれが進撃した先は、中部地方から近畿地方という、当時もっとも生産力の高い地域である。米の生産量だけ比べても、他のすべての地域に匹敵するといわれる。その上、生野銀山や堺といった、文字通り金のなる木を真っ先に手に入れている。
 信長が敵より劣勢の戦力で戦ったのは、尾張国内の覇権争いを除けば桶狭間だけであった。あとは、兵力物量ともに上回った時点で悠々と出兵している。「数は力、金は力なり」を忠実に実践したのである。

 〇大筒

 構造は六匁筒より単純だから、製鋼技術さえあれば製造はできる。とはいえ、それが難しかった。国友と堺が大口径化を競った。最初に二百目玉筒を造ったのは国友である。既述したごとく、この大筒は織田軍に装備され、長島の一向一揆を滅ぼすのに一役買った。しかし、国友大筒の進化はここまでで、あとは堺の鉄砲鍛冶の後塵を拝することになる。
 大阪城の天守閣の前に、今も鉄製の大砲が置いてある。銘を見ると、芝辻理右衛門謹製とある。芝辻家は堺の鉄砲鍛冶の老舗で、当主は代々理右衛門を称してきた。この大筒は五百目玉筒で、大阪夏の陣に使われたという。五百匁(約1.4キロ)の鉄丸が天守閣に命中したら、淀君でなくともびびるだろう。豊臣家を滅ぼした大筒が、鉄筋コンクリート製といえ、その居城っだった大阪城天守閣の前に置かれるとは皮肉である。
 五百目玉筒は、長さ九尺(2メートル70センチ余)、外径九寸(27センチ余)、内径二寸半(7.5センチ余)、重さ260貫超(約1トン)。攻城戦には有効なのだが、日本の山野を人馬で運ぶのはそうとう骨がおれる。
 当時の大筒の遺物は、堺博物館にも展示されている。東京では、靖国神社の博物館に保存されている。この博物館には、幕末の青銅製カノン砲も多く展示されているので一見に価する。
 二百目玉筒、五百目玉筒ともなると、むろん砲架に据え置いて撃つわけであるが、普通日本で大筒といえば、せいぜい百目玉筒程度で、これは抱えて撃つ。
 ところが、「和漢三才図会」は次のようにいう。「大銃はおよそ三百目、筒の重さ四貫目ばかり。薬また三十目入れ用ゆ。地上におきてこれを放てば、その音あたかも雷のごとし。玉は数百歩に至る。その、銃後に退くこと二、三十歩。火勢のはなはだしきを知るべきなり。しかるに、巧者はこれを抱え、自ら放つ」
 三百目玉筒を抱えて撃つ豪の者がいたというのである。一貫目は千匁、1匁は3.75グラムだから、一貫目は3750グラム、四貫目は15キログラム。これに三百目の玉と三十目の火薬が加わる。撃った後の反動は押して知るべしである。術より腕力がものを言ったのではなかろうか。
 ちなみに、今につたわる陽流砲術は、演武に百目玉筒を用いているよし。しかも、火薬は使わず、型のみの稽古という。激発時の反動で床尾を損傷してしまう恐れがあるからである。