| 系 | 譜 | 研 | 究 | 室 |
| 第2研究室【系譜】 | 一族 | / |
親 族 |
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こちらでは祖父、父、母、叔父、叔母などを扱います。 尾張守護代家の三奉行のうちの弾正忠家にあたる。 |
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「信貞」とも書く。
信長の祖父である。勝幡城主。
清洲守護代大和守達勝の三奉行の一人である。父は良信という。
城下に津島湊があり、豊富な経済力を背景に弾正忠家は、力を蓄えていった。
勝幡城の築城時期には諸説があるが、信定が永正元(1504)頃、拠点として築いていたと思われる。連歌師宗長の日記に、大永六年(1526)に津島を訪問した際の記載があり、津島湊の繁栄ぶりと、当時十七歳の息子三郎(信秀)とともに信定は挨拶に来たとある。
その後、はやい時期から子の信秀に家督を譲ったようで、その後は信秀が活躍している。
天文七年(1538)没したという。
織田氏弾正忠家の勃興−織田信定の尾張西部支配の始まり−
まず最初に、少々余談から。実は織田弾正忠家の最初の本拠地であった勝幡は主人味舌の自宅から車で30分ぐらいのところにありまして、また織田氏が支配下に置いた川港津島もその近くにあります。尾張でもこの勝幡、津島は名古屋市の近くにありながら、古き伝統を残した津島神社の門前町の風情を残した町として今に到っています。その津島も今では全く港町などというおもかげはありませんが、今から500年前には木曽川の河口近くの港町で尾張の経済の一つに中心でもあったとされます。
さて、余談はさておいて、先に述べた勝幡(愛知県海部郡佐織町)と川港である津島(愛知県津島市)が織田氏弾正忠家の最初の本拠地で、歴史上出現した最初のところでした。この勝幡を中心に尾張西部に勢力を築いたのが、織田信長の祖父織田信定でした。
織田信定は当時尾張守護代として実質的尾張支配者だった守護代織田氏の奉行人として清州三奉行という名で知られる、清州織田氏の重臣でした。当時尾張守護代家は同じ織田氏でありながら清州と岩倉に別れ国内で相争っていたといわれています。
織田信定が勝幡に城を築いたのは1504年頃とされており、その周辺部を支配下に治めていたことが知られています。16c初頭の勝幡は尾張の西の外れにあり、室町時代に入ってようやく開発の始まった低湿地の多い地方でした。しかし勝幡の近くでには尾張の商品流通の中心の一つで伊勢湾の海運の拠点であった川湊であった津島があり、その経済的富強に目をつけた織田信定は津島支配を目論んだのです。
織田信定の津島支配への道
織田信定が支配しようとした津島は当時伊勢大湊を中心とした伊勢湾の交易圏の中核をなす港町でした。当時津島は商業を中心に周辺の在地領主としても勢力をもった家が15家ほど確認されています。なかでも大橋、岡本、恒川、山川という4家が大きな勢力を持っていたとされています。
織田信定の津島支配はどのような形で進んでいったのでしょうか。実はそれほど史料は残っていない為、はっきりとしたことは言えませんが、津島の商人的名主層であった大橋氏が家の歴史を記した「大橋家譜」の中に次ぎのよな記述あり、信定の津島支配を進める様子がわかります。
「大永年中、織田氏ト諍論、数度ニ及ブ。同四年(1524)ノ夏、織田兵津島ヲ焼払フ。早尾(愛知県海部郡立田村付近)ノ塁ニ退キ又戦フ。・・(中略)・・・時ニ織田ト和睦有リ。而シテ同年十一月、信長公息女御蔵御方、実ハ信秀ノ女,大橋清兵衛重長ニ入輿ス。母ハ林佐渡守通村ノ女、是ヨリ津嶋一輩、信長公ノき下ニ属ス。」(引用:津島市史 1975年 P10から)
上の史料によると1520年代の初頭より何度も津島と織田氏の間に何度も諍いがあり、1524年に入って織田氏が津島を武力制圧しようと兵を出したことが記されている。織田信定は津島を武力制圧し支配下に入れようとし他が何らかの理由をもって和睦したものと思われます。理由についてはそれを記した資料がないため判然としませんが、武力で押さえこむよりも織田の武力見せつけた上で和睦し、経済基盤を得るほうが良いと考えたのかもしれません。ただ、この文書の「而して」からの記述は明らかにおかしいです。1520年代に織田信長の娘がいるはずもなく仮に信秀の娘としても相当無理が有るため家譜の文をすべて鵜呑みには出来ませんが、和睦に際して織田信定が自分の娘を津島の土豪に嫁がせたとするならば正に武断的な政策を捨て、宥和路線へ転向したものと思います。ただ当時国人クラスの武士が商人のような地下人と縁を結ぶ例はほとんどなく、もしこの輿入れが事実だとすれば信定の策はあたったことになります。かくして、1524年以降、尾張の重要な経済圏を手中に収め以後の信秀の
時代には信定が築いた津島の経済力を元に主家である守護代家をも上回る実力を得ましたが、その基礎を築いたのが信定の最大の功績だと思います。
信長のお爺さんって、国の端っこから起って、お金が一杯集まるところをを押さえたんですね。織田信長公が上洛した時に真っ先に堺を押さえたのもお爺さんの頃からの伝統だったのかもしれないですね。
参考文献
・戦国大名系譜人名事典(東国版) 1985年 新人物往来社
・歴史群像シリーズ「戦国合戦大全」 学習研究社
・清州町史 1970年 清州町刊行
・津島市史 1975年 津島市刊行
・戦国大名城郭事典 東京堂出版
(http://www5a.biglobe.ne.jp/~masita/gosenzo-tenka-oda2.htm)より
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尾張下四郡の守護織田大和守達勝の臣で、父信定の跡を継ぎ「清須三奉行」の一人として名を知られる。
信秀の織田氏は代々弾正忠を名乗り、尾張西部の勝幡城を拠点にしていたが、那古野城の今川氏豊を謀略によって追放して台頭していく。天文元年(1532)主家にあたる清須の守護代織田大和守達勝と争う。
天文二年(1533)七月十一日、弟信康を清須に派遣、達勝と和睦。
天文三年(1534)那古野城を改修して本拠とした。
しかし翌年古渡城を築き、幼い信長を那古野城に残して移った。(他説あり)
天文九年(1542)六月六日、三河に兵を進め安祥城を攻め落とし信広を入れる。
天文十一年(1549)八月十日、三河小豆坂にて今川義元と激戦し破る。この年美濃に侵攻、敗戦す。
天文十二年(1543)二月十四日、平手政秀を遣わし、朝廷に禁裏築地修理料として四千貫を献上。
天文十三年(1544)八月十五日、美濃国の反道三勢力と呼応し、美濃出陣。朝倉の援軍を得て斎藤道三美濃国を守りきる。
天文十六年(1547)九月二十二日、再び美濃に侵攻したが、大敗戦。弟信康らを失う。
十一月十七日、美濃国の出城大垣城を斎藤道三に囲まれ救援に駆け付けたところを、清須の守護代織田信友の家臣、坂井大膳らが留守中の古渡城に攻め寄せた。
急ぎ帰国して事なきを得た。
天文十七年(1548)古渡城を廃城。新たに末盛城を築き居を移す。秋、平手政秀の奔走により清洲織田家との和が成る。
三月十九日、第二次小豆坂の戦いで敗戦。
天文十八年(1549)一月十八日、犬山城主であった弟信康の子、織田信清と楽田城主の織田寛貞が共謀して信秀の直轄地である柏井に火を放ち乱入、急ぎ出陣して勝利した。
十一月九日、安祥城と子信広を奪われる。信広と松平竹千代を人質交換。
美濃国斎藤道三と和睦。信長と帰蝶婚約。
天文二十年(1551)流行病にて没す。(他説あり)
信秀の死を天文十八年(1549)とする説は、信長が領国支配の文書を発給したということと「武功夜話」に喪を秘して天文二十年(1551)に葬儀をしたとあることなどが根拠となっている。
■覇王信長の先駆者−織田信秀の新時代政策とは−
(1)織田信秀のイメージについて
織田信秀と聞けば。多くの方がご存知のように織田信長の父である。彼の経歴は尾張守護代織田氏でも尾張下4郡(尾張南部)を支配化としていた清洲織田氏の重臣「清洲三奉行」家の一つであった。しかし、彼の生涯を見て行くと最初から尾張に覇を唱えたのではなく、むしろ最初はかなり微弱だったとされている。また彼を特徴づけていたのは、尾張の覇権を握った後も、守護斯波氏、守護代織田氏を放逐するわけでなく、奉行人でありつづけたことだろうか。しかしそれ以上に織田信秀を見て行く上で重要なことは彼が尾張に勢力を拡大するにあたり当時の武将では余り例のないことを実施していたのである。ではその政策といかなるものであったのであろうか。
(2)信秀の初期の姿
まず、織田信秀の初期の姿はどうであったのであろうか。織田信秀の本拠地は尾張西部の勝幡(しょばた)であった。この勝幡の地は当時の尾張の国境で木曽川、日光川が流れる原野であり、その地の開拓がはじまったのは室町時代15c頃からという。そこはまさに中世の束縛がかなり少ないフロンティアだったといってもよい。当時その地に割拠していたものは新たに開発を始めた武装農民や流れ者などであった。
初期の信秀の政策として有名だったのが川港で門前町であった津島(愛知県津島市)の街の統治であった。当時の津島は伊勢湾の商業都市と密接な川港であり、尾張でも商業が活発であった。信秀が手がけたことは当時の津島の商工業者達の既得権益を保護し、かつその商業の安全を保障する事からであった。当時津島は自由都市的な町であり武力だけでの制圧ではその土地の有力者であった商工業者の支持を得ることは出来ないと判断した結果であったとされる。当時の津島の商工業者は尾張の辺境の開発した農村の支配者かつ、土倉などの金融業者、そして商売をしていた商人的武士団であった。津島の有力者たちは津島十五党とよばれていたが、信秀は彼らの権益を保障することで経済基盤を高めたという。
それは他の戦国大名に比して織田信秀の一統だけは農村経営よりも商業都市経営重視の政策をとったのは最初の本拠勝幡・津島の経営成功が全てを物語っていると思う。信長が上洛後、堺や尼崎などの湊や商業都市を重視したのも信秀が行った尾張での津島や熱田といった商業地での政策が大きく影響を与えているのであろう。ただ、商業を重視した大名は他にも多くいるため信秀が斬新だったというわけではない。しかし、尾張西部の比較的自由な風土と経済力が後の信秀の当時としては余り例をみない政策を生んだものと推察される。
(3)信秀が行った斬新な政策とは?
どういうものだったのであろうか。それは(2)で書いた尾張の比較的自由な風土と関係するかはわからないが、彼の政策はまさに尾張中央部への進出と大きく関係している。また尾張西部での彼の治世が当時の農村支配とは違った形であらわれていたのである。ではその政策とは一体どういったものなのであろうか。
■戦略意図に基づいた居城の移転
織田信秀の政策の一つとしてあげられるのは居城の移転であった。それも単純な移転ではなく元の本拠の住人・家臣の大半が移動するというものであった。ではなぜ、居城を移転していったのであろうか。
まず、最初の居城移転は尾張中央部の那古野に進出した時に始まる。当時尾張の中央部では清洲織田氏の勢力圏でありながら、駿河今川氏の一族が東尾張に割拠していたという。そして信秀は那古野城を攻め落とすと勝幡の総構えを放棄して、那古野へ移住してしまった。那古野への移動は織田信秀一統が尾張中央部へ進出してゆく布告であった。さらに那古野奪取の翌年には那古野を信長とその守役平手政秀にまかせ、古渡城(名古屋市中区古渡町付近)へ本拠を移し、それを気に門前町熱田の経略西三河への侵略を始めたのである。つまり、古渡への移転は商業地を勢力範囲に置くのと同時に当時松平清康死後乱れていた三河へ侵入し領土を得ることにあったのである。
以上のように信秀の居城移転はその後の戦略を実施する上での最前線にあるのである。そしてさらに驚くことにはその折に住民ごと街を移している点である。通常、各土地に在地していた農民たちがその地をはなれることはまずありえない。基本的にその地域に密着し、動かないのが普通であるが信秀のばあい、最初の本拠勝幡付近の状況がそれを物語っている。つまり流れ者も多く、多くは商工業者などの土豪など土地に縛り付けられていた他地方の領主よりは自由だったのかもしれない。また尾張西部の開発が中世でもかなり後期にようやく始まった新しい土地だったことも以外に土地への執着なく、移住ができたのかもしれない。
この居城移転は更に織田信長の時代になると頻繁におこなわれるようになる。那古野→清洲→小牧→岐阜→安土。これは常に信長の戦略の最前線にあったといってもよい。特に清洲から小牧への移転はその最たる例で、清洲から小牧へ移したことで、美濃斉藤氏領へ間断なく攻めれるようになったのである信長が実施するまえにすでに信秀がその手本を示していたのであろう。
■直轄地の設定と代官支配
信秀が行った政策において居城移転とならんで行ったものは信秀が攻め取った地を自らの直轄地(蔵入地)として代官支配を行わせたことが挙げられる。その最初は前項で信秀が勝幡を捨て、那古野へ移住したが決して勝幡にもっていた領地を捨てたわけではなく岩倉織田氏の勢力範囲である中島郡(現在の愛知県稲沢市、祖父江町など)へも進出した際、攻め取った土地を直轄地とした。当然攻め取った土地にはその地を支配していた土豪や地侍がいたはずであるが、信秀は自らの土地として掌握すると同時にその地に津島衆(津島支配で信秀の家臣となったもの)にその地の行政的な支配をさせ、年貢を蔵米とすることとしたのである。この当時の戦国大名はその地における土豪、地侍などの土地の支配を認め、その支配を安堵することで支配していたのだが信秀の政策はまったく当時の支配方法からすればかなり異質なものだったのである。しかしその支配において大きな抵抗がなかったのも、おそらくは当時の尾張西部の特殊な環境にあったのではないかとおもっている。もしこれが尾張でも北部など荘園などのあったところであれば、相当な反発があったはずである。この政策についても信長に受け継がれている。信長はさらに常備軍設置とあわせて、常備軍の足軽大将などに、土地ではなく織田直轄地から与えられた蔵米を支給する、蔵米知行制を実施していたこれは、上級家臣でもかなり者がそのような知行を受けていたとされており、織田信秀一統の伝統的な政策であったと考えられる。
最後に織田氏が行った当時の戦国大名と違った政策においては当時の尾張の状況がかなり、自由で人の出入りが激しかったこと、そして商工業が発達していたことを物語っている。そして織田一統でももっとも新興織田信秀は尾張西部という新しい息吹のある土地を制して行く過程でよそから流れてきた商人やあたらしく農地を開拓した地侍層などと結びついたことが当時でも特異な制度を生み出していったのではないか。
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信長の生母。
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与次郎。
信秀のすぐ下の弟で、兄に従い戦功をあげる。天文二年(1533)七月十一日、信秀が主家守護代大和守達勝と争いその和平後、代理として清洲城に出頭した。
天文六年(1534)木ノ下城を新たに犬山城へ移し居城とする。
天文十一年(1549)八月、兄信秀に従い三河小豆坂で今川勢と戦い戦功をあげる。
天文十六年(1547)九月二十二日、兄信秀に従って美濃国斎藤道三を攻めて、織田軍は大敗した。加納口の戦いにて戦死。
| 織田信光 /おだ・のぶみつ ( ? 〜 弘治元年(1555) ) 十一月二十六日没。 | ||
| 孫三郎 |
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| 織田信照 /おだ・のぶてる ( 生没年不詳 ) | ||
| 越中守 中根殿 |
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■以下の情報は「http://members.tripod.co.jp/twt/gozoku/odake.htm」より
織田家
織田氏は室町の初め頃、幕府の管領職であった越前国守護斯波義将の家来であった。
応永五年(1398)ごろ、斯波氏は尾張国も兼任することになり織田伊勢守入道常松を抜擢して守護代とした。
しかし、常松は主君斯波義重と在京していることが多く、代理人として直接尾張国にあったのは兄弟?の織田常竹であった。
常竹は下津城(稲沢市)を築き居城として在地支配を行った。
応永十二年(1405)には、守護斯波氏の城として清洲城も築かれている。
正長元年(1428)ごろ、常松は病にかかりこの年没したと思われる。織田弾正というものが病床に侍るとある。
正長二年(1429)には、守護代として織田勘解由左衛門が任命された。
こうした経緯で織田氏は尾張国へやってきて土着したのである。
織田敏定
????〜1495没
又六、治郎左衛門、大和守。
小田井城主で、清洲城の守護斯波氏を補佐した守護代であった。
左の肖像画は延徳二年(1490)に斯波義寛とともに描かせたもので、「織田雍州藤原敏定寿像」という。
かつて戦で目に矢を受けたまま戦ったという。
文明八年(1476)下津城を中心に勢力を持つ同族の伊勢守敏広と戦い敗走させる。
文明十年(1478)十月十二日、再び勢力を盛り返す伊勢守敏広と戦い勝利した。
同年十二月四日、美濃国守護代斎藤妙椿と岩倉を拠点とした伊勢守敏広連合軍が清洲城を攻撃した。
文明十一年(1479)一月十九日、斎藤妙椿と和議成立。伊勢守と尾張半国づつの守護代として共同統治することとなる。
その後、守護斯波義寛とともに在京していたようである。
文明十四年(1482)日蓮宗と本圀寺が清洲城内で法論を戦わす。「清洲宗論」
長亨元年(1487)将軍義尚の六角征伐に尾張からも守護斯波義寛(義良)が、敏定らを率いて出陣した。
長亨二年(1488)尾張争乱のため、斯波義寛(義良)とともに帰国した。
延徳三年(1491)二度目の六角征伐にも斯波義寛に従軍。軍功があったという。
明応四年(1495)美濃国船田の乱に参戦。敏広の子広寛と対立したが陣中で病没した。
織田忠寛
?〜天正四年(1576)十二月十五日没。
掃部助。「津田」一安ともいう。
日置城主。
信長とは、遠い親戚であろうか。
父は、織田丹波守寛貞の子という。「織田系図」
永禄十一年(1568)信長が、北伊勢を攻略したときに安濃津城に入れ置かれる。
永禄十二年(1569)五月、信長の使者として甲斐国武田信玄のもとへ行く。
八月、大河内城攻めに従軍。
九月、和平の使としてて北畠具教と会談。
大河内城は開城してそのまま信雄について入城した。
十一月、近江国神埼郡にて三千五百十石を宛がわれる。
天正二年(1574)十月、長島征伐に従軍。
天正三年(1575)八月、越前一向一揆征伐に従軍。
天正四年(1576)十一月、信長の命で信雄が北畠一族を粛清。
十二月、忠寛も田丸城に招かれて殺された。
北畠一族粛清で信長父子と対立があったか。
はっきりとした理由は定かではない。
織田信張
大永七年(1527)〜文禄三年(1594)九月二十二日没。
又六郎、太郎左衛門、佐兵衛。「寛廉」「信弘」とも。
小田井城主、坂井戸城主。
「織田系図」に、父は藤左衛門寛故で、清須守護織田氏の三奉行の家柄である。
妻は信秀の弟で犬山城主の信康の娘である。
信長に仕えたとき、一字を与えられ「信張」と改めたという。
早くから信長に仕えたが、記録は少なく「信長公記」では天文年間の盆踊り興行と、元亀元年(1570)の比叡山攻めに登場する。
天正四年(1576)十一月二十一日、信長が内大臣に昇進してこのとき信張も従五位下左兵衛佐に叙任される。
天正五年(1577)二月、雑賀攻めに従軍して戦後、佐野砦守将として置かれる。
以後、和泉・紀伊の軍政を任されていたようである。
いつごろあたりかは定かではないが天正十年(1582)以前には、和泉国岸和田城を居城としていた。
天正十年(1582)、本能寺で信長が横死すると紀伊の国人たちが蜂起して蜂屋頼隆と鎮圧に努めた。
その後、経緯は不明だが信雄に仕えて尾張国の小田井城に戻ったようである。
天正十二年(1584)、信雄の臣として土佐国香宗我部氏との連絡をとっているが、これ以後の動静は定かではない。
天正十五年(1587)、肥後国で佐々成政改易後、秀吉に八代城を与えられたが辞退したという。すでに信雄から離れていたのかも知れない。
文禄三年(1594)九月二十二日、六十八歳で大津にて没した。
織田信直
天文十五年(1564)?〜天正二年(1574)九月二十九日没。
信張の子で母は信長の別腹の妹である。
母は、信秀の側室池田氏で信長の乳母を務めた養徳院の娘である。
信直の事績はあまり伝わらないが、小田井城に居ながら父と行動を共にしていたか。
天正二年(1574)七月、長島攻めに従軍。
九月二十九日の激戦で、討ち死にしてしまった。
遺児に、信氏・忠辰・娘一人を残した。
長男信氏は、天正九年の馬揃えで連枝衆として参加したという。
次男忠辰は最後の小田井城主であったという。
娘は牧野宮内少輔の室。
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