●信長の同腹の弟。
永禄20年の自身発給の書状には「勘十郎信勝」と署名があるが、
一般によく知られている「信行」の名は系図以外では確認できない。
その他、文書で確認の出来る名乗りは「」「」だけである。
・父信秀より柴田勝家、佐久間盛重、佐久間信盛などを補佐として付
けられる。うつけ者と悪名高い兄信長に対し、品行方正であったと
いう。
1555年、守山城主の伯父信次の家臣が誤って弟秀孝を殺害した時、信勝は居城の末盛から守山城へ駆けつけ、街に火をかけ、裸城にし、信長から不興を買った。
父信秀死後、筆頭家老の林秀貞(一般には「通勝」)・林美作守兄弟、柴田勝家らにより信長排除、信勝擁立の動きがある。信勝擁立派は、信長の義父にあたる美濃斎藤道三の死後、1556年8月24日に謀反(稲生の戦い)をおこす。信勝擁立派(柴田:千人、林:七百人)は多勢でありながら、寡勢の信長(七百人)に破れたため、母土田御前は、勝家を伴い清洲城へ謝罪に赴き、信長から許される。
1558年、再度謀反を企てるが、今度は勝家の内通により事前に信長の耳に入り、信長は病を装い信勝を清洲城に呼び寄せ、度重なる謀反の罪で謀殺。
織田信勝の死亡年
「信長公記」の首巻では永禄元年(1558)十一月二日となっており、「享禄以来年代記」、「織田家雑記」、「寛政重修諸家譜」の三史料では弘治三年(1557)となっている。
信長公記・首巻の年号は誤りが多いことから、また上記の三つの史料での記述年が一致することから、一般には弘治三年説が採られていましたが、弘治三年十一月二十五日付けの書状(書状確認→)が残っているため、現在では『信長公記』の永禄元年説が有力視されています。
(出典:『織田信長家臣人名辞典』)