研究室【系譜 一族

兄弟・姉妹


【兄弟/姉妹】
 こちらでは信長の 兄弟姉妹 を扱います。

信長の兄弟(姉妹)は全部で何人いるのでしょうか?
現在の所では、信長を入れて男は十二人、女は十人の合計二十二人ということになります。しかし、元服せずに早世した男子や、嫁に行った記録のない女子は、裏付けとなるものが無いために、その存在を示すことは出来ませんので、もう少し沢山いたのかも知れません。


兄弟
 
 織田信広 /おだ・のぶひろ    ( ? 〜 1574/9/29

 三郎五郎

 大隅守

●信長の異母兄。正室の子ではないものの織田信秀の長男である。
 「津田」を称していた形跡もあり。

 父織田信秀より三河の安城城の城代を任される。天文十八年(1549)11月、今川軍に攻められ開城。今川方に捕らえられ人質となるが、織田家に捕らえられていた松平竹千代(後の徳川家康)と交換され、尾張へ戻る。

 1557年頃、美濃の斎藤義龍と謀り、信長の居城清洲を乗っ取ることを企てるが、信長に見抜かれ未遂に終わる。信長から不問に付され、以後は信長に忠実に仕えた。

 天正元年(1573)年4月6日、二条城に篭もり敵対していた将軍足利義昭との和議を結ぶ際、信長の名代として二条城に赴いた。

 天正二年(1574)7月13日以降、信長は伊勢長島の一向門徒に対し陸・海上を封鎖し、兵糧攻めを行う。信広も参陣する。同年9月29日、長島砦の門徒が降参し砦から船で退去するとき、信長は鉄砲を撃たせ、際限なく撃ち殺した。この直後門徒からの反撃で、信広は討ち死にした。
 尚、同日他の二砦に篭城中の門徒に対し、幾重にも柵を設けて取り込めておいて、四方から火を放ち、男女二万人余りを焼き殺した。

 母/
織田信秀の長男である。
 天文九年(1540)、信秀は三河に侵入し松平家の安祥城を攻略。
信広はこの安祥城の城主として配される。
 安祥城は松平信康(徳川家康の祖父)が居城を岡崎に移すまで代々拠点にしていた城で松平家にとって 要の城の一つであった。西三河と尾張を結ぶ土地にあり、三河攻略の橋頭堡となりえる城である。当然、信秀は信頼の置ける城将を置くことを念頭に入れたと思う。従って自分の息子である信広を安祥城に入れたのであろう。
 信長も生まれて間もなく那古屋城を与えられたが、那古屋城は信秀の拠点となって久しく、その周辺も 信秀に逆らえるだけの対外勢力はない。だが、安祥城は那古屋城とは違い周囲はすべて敵地という前線である。幼少の息子を配したとは思えないから、この時既に元服し信秀の片腕となり得るような働きもしていたのだと思われる。そこから考えれば信長とは十歳以上離れていたのかもしれない。
 しかし天文十八年(1549)、今川家の傘下に組みした松平家は今川家の力もかりて安祥城を奪回。信広も捕らわれの身となる。かねてより織田家の人質となっていた松平家の御曹司竹千代(後の徳川家康)との人質交換によって 信広は尾張に帰還する。これは信広の軍歴にとって大きな汚点となったのかもしれない。後の織田家の家督争いに際し、家臣団は信長派・信勝派に別れたが信広は一人で奮起したようである。家臣団からみても首領と仰ぐには器量不足と思われたのであろうか。それとも只単に庶子という理由だけであろうか。
 今しがた述べたが、信秀の死後、織田家の家督は信長が嗣いだが、不満を持つ家臣は離反し、また信長の 弟信勝を担ぎ上げて謀反を起こした。信広はそれとは別に自身で謀反を企てる。美濃の斎藤氏と共謀して信長が出陣したら空となった清洲城を奪いとり、さらに信長の背後から襲おう というものであったが事前に察知されてか失敗に終わる。しばらく対立も続くようだが、やがて赦されて信長の元で働くこととなった。信長の名代をも務めたりして一門の要としての働きも見せている。
 天正二年(1574)7月、伊勢長島の一向一揆攻めで一揆勢の最後の反撃いよって戦死する。尚、津田姓を称し津田三郎五郎、津田大隅守と書かれた文献などもある。娘があり丹羽長秀の室となる。(深光院)<ごくうより引用>
 
 織田秀俊 /おだ・ひでとし   ( ? 〜 1560 
 安房守

 信広と同腹の弟。
 尾張統一前の早い段階の弘治元年(1555)織田信次出奔後に、信勝(信行)以外の他の兄弟を差し置いて守山城主になり、また安房守を称していたことから、信長の兄ではないかとの説がありますが、諸系図では安房守を称している信長の兄弟は五男あるいは六男の「信時」とされています。しかし「織田安房守秀俊」の名で禁制を出しているのが確認されており、秀俊が正しいと考えられる。また、秀孝との説もある。

永禄三年(1560)叔父の織田信次の家臣の角田新五に殺されました。

 母/
 
 織田信勝(信行) /おだ・のぶかつ(のぶゆき)    ( ? 〜 1558/11/2 没

 
 勘十郎


 武蔵守

信長の同腹の弟。
 永禄20年の
自身発給の書状には「勘十郎信勝」と署名があるが、
 一般によく知られている「信行」の名は系図以外では確認できない。
 その他、文書で確認の出来る名乗りは「」「」だけである。

・父信秀より柴田勝家、佐久間盛重、佐久間信盛などを補佐として付
 けられる。うつけ者と悪名高い兄信長に対し、品行方正であったと
 いう。

 1555年、守山城主の伯父信次の家臣が誤って弟秀孝を殺害した時、信勝は居城の末盛から守山城へ駆けつけ、街に火をかけ、裸城にし、信長から不興を買った。

 父信秀死後、筆頭家老の林秀貞(一般には「通勝」)・林美作守兄弟、柴田勝家らにより信長排除、信勝擁立の動きがある。信勝擁立派は、信長の義父にあたる美濃斎藤道三の死後、1556年8月24日に謀反(稲生の戦い)をおこす。信勝擁立派(柴田:千人、林:七百人)は多勢でありながら、寡勢の信長(七百人)に破れたため、母土田御前は、勝家を伴い清洲城へ謝罪に赴き、信長から許される。

 1558年、再度謀反を企てるが、今度は勝家の内通により事前に信長の耳に入り、信長は病を装い信勝を清洲城に呼び寄せ、度重なる謀反の罪で謀殺。


織田信勝の死亡年

 「信長公記」の首巻では永禄元年(1558)十一月二日となっており、「享禄以来年代記」、「織田家雑記」、「寛政重修諸家譜」の三史料では弘治三年(1557)となっている。
 信長公記・首巻の年号は誤りが多いことから、また上記の三つの史料での記述年が一致することから、一般には弘治三年説が採られていましたが、弘治三年十一月二十五日付けの書状(書状確認→)が残っているため、現在では『信長公記』の永禄元年説が有力視されています。

(出典:『織田信長家臣人名辞典』)


母/土田御前
(織田信秀正室)
 
 織田信包 /おだ のぶかね   ( ? 〜 ? 1543?〜1614/7/17

 三十郎

 上野介

 一時、伊勢長野氏の名跡を嗣ぎ、「長野信好」と名乗る

秀吉政権下では、民部大輔、左中
将。

 斎号は
老犬斎を称した。

信長の弟。信秀の四男。

 1568年に北伊勢を攻略した際、信長の三男信孝を神戸氏の養嗣子とするのと同じく、信長の意により長野氏の養嗣子となる。この時長野氏の配下を麾下とした。

翌年8月伊勢の北畠氏の大河内城攻めに参陣。北畠氏との和睦後、安濃津城に移る。その後、長島攻め、越前一向一揆攻め、雑賀攻めなど、信長直轄の遊撃軍として活躍した。信長の晩年には、一門衆の序列において信忠、信雄に次ぐナンバー3の地位となる。

 本能寺の変後秀吉に接近し、二人の甥である信雄、信孝を敵に回したため、秀吉から加増を受け、従三位左近衛中将までの官位となった。しかし1594年に秀吉の機嫌を損ね、近江二万石に減封された。


織田信包:信長の次男信雄と共に、伊勢、伊賀を領有し、安濃津城主でした。天正九年(1581)の天覧の馬揃えでは、信忠、信雄に次ぐ一門衆の三番目の序列を与えられていました。信長没後は秀吉に仕え、関ヶ原の時は西軍に属し、戦後領地を安堵されました(丹波柏原三万六千石)。慶長十九年(1614)没。

 母/
 
 織田 /おだ    ( ? 〜 ? 
 
織田信治:元亀元年(1570)近江宇佐山城を森可成と共に守備中、朝倉、浅井から攻められ、討死しました。
 母/
 
 織田 /おだ    ( ? 〜 ? 
織田信興:元亀元年(1570)尾張小木江城を守備中、伊勢長島の一向一揆に攻められ、自害しました。
 母/
 
 織田 /おだ    ( ? 〜 ? 
中根信照:越中守。母の実家中根家の養子となりました。信長存命中は尾張沓掛城主のようでしたが、没後は次男信雄に仕えました。没年不詳。
 母/
 
 織田 /おだ    ( ? 〜 ? 
織田秀成:信広と同じく天正二年(1574)伊勢長島の一向一揆攻めの時に討死しました。
 母/
 
 織田 /おだ    ( ? 〜 ? 
織田長益:有楽斎。茶人として有名で、利休七哲の一人です。本能寺の変の時は信忠と共に二条第に篭もっいましたが、臣を欺いて脱出しています。変後秀吉に仕え、関ヶ原では東軍に属し、大坂冬の陣では大阪城に入っていましたが家康の間諜であったと言われています。元和七年(1621)没。長益の二子は江戸期に織田家として数少ない大名家の藩祖となりました(長政:大和芝村一万石、尚長:大和柳本一万石)。
 母/
 
 織田 /おだ    ( ? 〜 ? 
織田(津田)長利:天正十年(1582)本能寺の変の時、二条第で討死しました。
 母/
 
 織田 /おだ    ( ? 〜 ? 
 母/
 
 織田 /おだ    ( ? 〜 ? 
 母/
 
 織田 /おだ    ( ? 〜 ? 
 母/
 
 織田 /おだ    ( ? 〜 ? 
 母/
 


姉妹

 
 ◆
信長の姉妹

 信長の姉妹(信秀の娘達)は13人程いたらしい。しかし、その人数も系図によって異なり、正確なところははっきりとしていない。データ量が少ないため確認できたものはすべてこちらに記載した為、その正誤は今後可能な限りの訂正を加えていきたいと考えている。
 各々の名についても、女性の場合は武家系図の常として、ただ「女」としたり「○○室」などと書かれることが多く、実名を明確にはできないことが多い。「○○」に当たる部は、嫁ぎ先の居城名やその地名から呼称を使用することがあり、確認できたものは出典をあげたうえでこれを記載した。確認できないものは通例に従いそのまま「○○室」などとした。

 それぞれの生母についても、六女が信長の乳母となった池田氏の養徳院(池田恒興の母)であること以外は不明である。しかも各織田家系図に混乱が多すぎて、出生の順も混乱があり、誰が姉で誰が妹なのかすら明確ではない。おおよその年齢順に上から配列したが、多少の前後はあるだろう。これも確認が取れ次第順次訂正を加えていきたいと思う。

 各自の嫁ぎ先、また再婚先が確認できるものは載せた。その多くが同族・家臣に嫁いでいるようなので、以下のように分類をした。嫁ぎ先の武将名が字のものは同族・親類。字は他国大名家。は家臣。また、各々の居城の部分をクリックすると解説へジャンプするようにした。

 また、嫁ぎ先で子を産んでいる場合、確認できる者については記載した。
 

 

 くらの方 /  くらのかた   ( ? 〜 ? 
 
名前 生没年 婚姻先 居城 別離理由 再嫁先
くらの方 大橋重長 奴野城?(津島市)
 母/
 
 神保氏張 室 /     ( ? 〜  
名前 生没年 婚姻先 居城 別離理由 再嫁先
神保氏張 越中守山城(富山県) 稲葉貞通
 母/
 
 犬山殿 / いぬやまどの     ( ? 〜  
名前 生没年 婚姻先 居城 別離理由 再嫁先
犬山殿 織田信清 犬山城(犬山市) 甲斐亡命
 母/
 
 斉藤道三 室 /     ( ? 〜  
名前 生没年 婚姻先 居城 別離理由 再嫁先
斎藤道三 稲葉山城(岐阜県) 滅亡
 母/
 
 遠山直廉 /     ( ? 〜  
名前 生没年 婚姻先 居城 別離理由 再嫁先
遠山直廉 苗木城(岐阜県)
 母/
 
 お市の方(小谷殿)  / おいちのかた(おだにどの)     ( 1547 〜 1583 

婚姻先 居 城 別離理由
浅井長政 小谷城(近江) 浅井氏滅亡(攻手:織田信長)
再嫁先 居 城
柴田勝家 北ノ庄城(越前) 柴田氏滅亡(攻手:羽柴秀吉)

(父/浅井長政)

 

備 考

茶々

満腹丸
 小谷落城後、捕縛打ち首(京?条河原)

 母/土田御前
 *一部に異説有り
 
 小田井殿 / おだいどの    ( 1552 〜 1573 
名前 生没年 婚姻先 居城 別離理由 再嫁先
小田井殿 1552〜1573 織田信直 小田井城(西枇杷島町) 長島で戦死
 母/
 
 小幡殿 / おばたどの    ( ? 〜  
名前 生没年 婚姻先 居城 別離理由 再嫁先
小幡殿 織田信成 小幡城(守山区) 長島で戦死
 母/
 
 お犬の方 /  おいぬのかた   ( ? 〜 1582 
名前 生没年 婚姻先 居城 別離理由 再嫁先
お犬の方  ?〜1582 佐治信方 大野城(常滑市)   長島で戦死 細川昭元
 母/
 
 織田出雲守 室 /     ( ? 〜  
名前 生没年 婚姻先 居城 別離理由 再嫁先
織田出雲守
 母/
 
 飯尾信宗 室 /     ( ? 〜  
名前 生没年 婚姻先 居城 別離理由 再嫁先
飯尾信宗 奥田城(稲沢市)
 母/
 
 津田元秀 室 /     ( ? 〜  
名前 生没年 婚姻先 居城 別離理由 再嫁先
津田元秀 野夫城(尾西市) 本能寺で戦死
 母/
 
 おとく(小林殿)  / おとく(こばやしどの)     ( ? 〜  
名前 生没年 婚姻先 居城 別離理由 再嫁先
おとく(小林殿)  ?〜1587 牧 長清 小林城主(中区) 病死別
 母/
 



 

   
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