織田氏は各種系図によれば、平重盛の子の親実に始まるとされている。それを信じるなら織田氏は桓武平氏ということになる。確かに信長もある時期以降には平氏を名乗っている。この僅かな事実を根拠として信長の出自を平氏とする考え方が存在する。しかしながら、このことのみから、信長は平氏だと断定してしまうのはあまりに乱暴なことだと思われる。
別の視点に立ち、残された文書の類から考えてみると、信長に限らず信長以前の織田氏は藤原の姓を名乗っていたことが確認できる。(信長も藤原姓を名乗っている→1号文書)自称ともいうべき「名乗り」だけからは平氏であるのか藤原氏であるのかを決定しうるだけの材料はないように思われる。
また、平氏説に否定的な考えをもつ研究者達は、信長が平姓を名乗った時期に何らかの問題があるのではないかとして、信長が平氏を名乗った裏には、室町殿(足利氏)に代わって天下を取ることを内外に宣言する意味が込められているのではないかと考えているようだ。つまり、信長は「源平交代思想(*1)」によって、自らの出自を平氏の落胤に仕立て上げた可能性を指摘しているのである。
信長が平氏を称した初見は、元亀2年6月吉日付の越前白山別山権現に寄進された鰐口で、その銘文には「信心大施主平信長」云々と刻されてある(→287号文書)。この鰐口の寄進先が越前白山別山権現であることから、元亀元年に越前攻めに失敗した信長があらためて越前への再挙を期してこの鰐口を納めたことが伺われる。そして更にその背景には、信長の心情が、将軍室町殿(足利氏)を補佐代行するという名目的な立場から脱却し、源氏の足利氏ではなく、それに代わって平氏である自分(信長)が政を執り行うという源平交代思想への移行を示した現れではないかとも見受けられる。もっと単純に意を汲めば、越前の大名朝倉氏が源氏であることから、朝倉氏に代わって平氏の信長が越前を治めることの宣言ともとれなくもない。
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源平交代思想
とは・・・
「源平交代思想」とは、乱暴な言い方をすれば、源氏と平氏が交互に天下を治めるという考え方のことで、平 清盛(平氏)が天下を取り、それを破った源氏の源頼朝が鎌倉に幕府を開いた。そしてその執権という形で平氏の北条氏が政権を簒奪した。ついで、その鎌倉幕府を源氏である足利尊氏が倒したといった具合。
これに代わるのは平氏でなければならないという考え方を下敷きにして足利義昭を追放した信長は平氏であった方が理にかなった考え方である・・・といった、取って付けたような物の考え方で、何かの裏付けがあるものではない。
付け加えると、本能寺に倒れた信長の政権を継承するために、出自のはっきりしない秀吉が、わざわざ平氏を名乗っているのは注目すべき点であろう。信長の世継ぎとして、信長が名乗った平氏を自分も名乗ることで自己正当性を主張したかったということである。
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さて、では信長が平氏落胤の流れを汲む出であるというこの『平氏説』は本当なのであろうか?その真偽を確認するためには、まず平氏の系図を確認してみる必要がある。
平氏の系図を確認する→●
平氏の系図から織田氏へつながる部分を抜き出してみると、以下のようになる。
清盛―――重盛――┬維盛――― 妙覚
└資盛・・・・・・親真・・・・・・[織田氏へ] |
平氏の系図を確認しただけでは、そこには織田氏につながる部分はまったく記されていない。しかし、現存する織田氏の系図の殆ど全てが、彼の高名な平清盛の子にあたる平重盛の第二子(資盛)の落胤(親真)だとしている。「落胤」であるとすることからも、織田氏側からの一方的な結びつけであることは否めない。
織田氏の系図が平氏に繋がっているとする部分で、実際に平氏の系図自体で確認できる最終の者は誰かと言えば、清盛の孫にあたる資盛ということになる。
しかし、この資盛は27歳の時に壇ノ浦合戦で討死にしている。若くして討死にした清盛の嫡系となれば後胤説をつなげるには何とも都合の良い人材ともとれなくはない。(→資盛のデータ確認)