藤 原 氏
解 説
「藤原」という地名は、大和、伊勢、上野、下野、磐城、岩代、陸中、豊後などによくみられる。最も有名なのは、大和国高市郡藤原(今の鴨公村高殿の地)で、平城京に遷都するまで、十六年の間は帝都(藤原京)となっていた。中臣鎌足が下賜された藤原の氏も、この地名から採られたもので、多武峰縁起に「大織冠鎌足、推古天皇二十二年八月十五日、大和国高市郡大原の藤原第に生まる」と伝えられている。鎌足は中大兄皇子(後の天智天皇)を補けて、蘇我蝦夷・入鹿 父子を誅殺し、血縁社会から律と令による社会、即ち大化改新の大業を成した。その功績が莫大であったということで、天智天皇は、先にも後にも無いと云う大織冠と言う官位と、「藤原」という氏とを与えたのである。これが藤原氏の起源であり、その子 不比等もまた 不出生の英雄、大宝・養老の律令撰定などに多大な功績を残しただけでなく、その娘 宮子は文武天皇の妃となって、聖武天皇(東大寺を建立)をご出産された。又 その妹 安宿姫は長い間の例を破って、臣下より皇后に上り、孝謙天皇をご出産された、光明皇后である。
このように並々ならぬ功労と外戚関係によって、藤原氏は大いに栄えて、不比等の子四人は、四つの家を創立して、その子孫は全国津津浦々まで広まった。長男の武智麿は南に住んだことから南家と言い、二男、房前は北に住んで北家と言った。三男の宇合は 式部卿を兼ねていたので式家と称し、四男の麻呂は左京大夫を兼ねたので京家と称した。これが藤原四家の起源である。
臣下の身にありながら、藤原氏ほど長い間に一国の政権を掌握していた氏族は、我が国は勿論、世界にもその例は無いだろう。奈良朝の終わりより明治の始めまで、千有余年の間、朝廷の高位高官は殆ど全部、この藤原氏の占めることとなったのである。そのような理由もあって、支族が非常に多いという点に於いても他に例がないのである。*藤原の地名は100ヶ所以上、それらの地名を氏とする人もあり。
* 特に明治になって「苗字必称令」により藤原を名乗る人甚だ多く、現在全国で約10万人おられる。
★天下の大姓「藤原」氏からは400氏・1300万人
藤原氏の主流は、朝廷の藩屏として奈良時代から1000年以上もの間、政権を握った。しかし、地方に下って土地の土豪となり、勢力を扶殖した支流も多い。かれらの大部分は武士化していった。中央の藤原氏が近衛・鷹司など公家の屋号や、一条・九条など本邸のあった地名を名乗って、とくに藤原氏を強調しなかったのに反して、地方に散っていった藤原氏はその出自をお知らしめるため、「藤」の一字を名字に付けて、ぞれを誇りとした。
例えば、伊勢の伊藤、加賀の加藤、近江の近藤、武蔵の武藤、遠江の遠藤、尾張の尾藤など国名によるもの、斎宮頭の斎藤、木工助の工藤、左衛門尉の佐藤・左藤、主馬頭の首藤、内舎人の内藤など官職名に因むもの、安倍と藤原で安藤、大江と藤原で江藤、海部と藤原で海藤など他姓との結合によるものなどがある。また、藤井、藤田、藤本、藤沢、藤岡など、頭に「藤」を冠した名字も続出した。
「藤」のついた名字は308氏あるといわれる。さらに藤を富士、不二、葛に改めた家もある。これらを、含めると400氏以上になるという。日本の姓氏100位以内にも十氏が入っている。