一般には、戦国時代というのは応仁の乱(1467)の勃発を契機に日本全土が戦国乱世に突入していったという認識がされている。しかし、関東地方では、応仁の乱より三十年近くも前から争乱の状態に入っていたり、奥羽では応仁の乱から遅れること百年近くが経過している。このように、北から南までの日本全体が同時に、一斉に戦乱に突入する筈もなく、その争乱状態の波及は地域によって異なっている。
日本のどの年代の、どの地域に、戦国の戦国乱世が波及していったのか、ということを抜きにして、日本各地の戦国大名等の存在を語ることは出来ない。
例えば、伊達政宗のように乱世も終焉となった時代に生まれたのでは、都近隣の中央だけでなく、自国の周辺にさえも安定した勢力が出来上がってしまって、勢力を大きく伸ばすことは難しいことになる。京への距離という以前に、自分の居る地域での自勢力と他勢力との関係という部分も考えなければならないように思う。
また、越前の朝倉氏は自国が雪深い越前にあったため、他国へ攻め込んでいても、身動きがとれなくなってしまう冬の大雪が降る前にはいつも国元へ引き上げてしまうことが多かった。領国経営という点から考えれば、如何に境目の城を固め、本城を固め、自分の領国を守るかということに専念することが基本である。このように天候的な地域差というのは、対自然の動かし難い条件設定であることは事実である。
しかし、同様に織田信長と武田信玄の差を語る際に、信長が都である京都に比較的近い地域を地盤としていたことから、その距離から地域的優位性に目がむけられることが多い。信長と信玄の場合は、ほぼ同時代でもあり、単純に京への距離ということが比較されてしまう訳だが、自国尾張内の統一すら出来ていない状況で主家ではない庶流家の跡目を相続した信長、それに対して信玄は、守護大名から戦国大名化した武田家に生まれ、しかも周辺の国人から求められて父を追放してまで領国経営を引き継いでいる。
戦国乱世を考える際の地域性とは、そのような立地条件的な部分だけではなく、その国の内政状況、時期的・時代的状況など、いくつもの因子が絡み合っていることを考えなければならないと思う。
全国に群雄が割拠し、それぞれの地域で凌ぎを削り、押したり引いたりの駆け引きが展開していたからこそ、目的を達成するためにより効率的な方法が編み出される必要性があったのであり、そしてそれを誰よりも早く実現できた者のみが大きく版図を広げることができたのだと思う。150年間という長いようで短い戦国という時代の中で、その登場が早すぎたり、遅すぎたり、タイミング良く出現し天下を平定した者と様々である。
時代、地域、そしてその状況をうまく把握し、それに適合した対応を行えたか否かが、時代の覇者と成り得る最大の条件となることは言うまでもないだろう。