1研究室

1-1

信長学概論研究室

信長の性格

村木砦を攻めた際の行動


 
  こちらは、織田信長という人物のイメージ「信長は本当に残酷だったのだろうか?」について考える場所です。
 
  このページでは信長が
村木砦を攻めた際の行動について見てみます。

   行動内容

出典

年代
 
 信長は、村木砦を攻め落とした時、
 降参してきた敵兵を許している。
 また、自分の小姓達が多く傷つき死んだことに
 感じて涙を流した。
 

『信長公記』

天文23年正月24日

 

 
『信長公記』の首巻、十六項に「村木の取出攻めらるゝの事」とあり、そのうちの必要部を抜粋してみてみると、


城中の者働事比類なき働きなり。然りといへども、透をあらせず攻めさせられ、城内も手負・死人、次第次第に無人になり、様々降参申候。尤 攻干さるべき事に候へども、手負・死人塚を築、其上既に薄暮に及び候の間、詫言の旨に任せ、水野金吾に仰付けらる。信長御小姓衆歴々其員を知らず手負・死人、目も当てられぬ有様なり。辰刻に取寄せ、申の下刻迄攻めさせられ、御存分に落去候訖。御本陣へ御座候て、それもそれもと御諚なされ、感涙を流させられ候なり。翌日は寺本の城へ御手遣。麓を放火し、是より那古野に至て御帰陣。

 とある。

 「城内も手負・死人、次第次第に無人になり、様々降参申候。」と、城内の今川兵が降参して来たところ、本来なら攻め滅ぼすところであったけれど、負傷者・死者が塚を築くほどになった上に、時刻も薄暮に及んだとして、「詫言の旨に任せ」て水野金吾にその後始末を仰付けている。この詫言(わびごと)とは謝罪という意味だから、降伏して命乞いをしてきた者の命を取ることなく、その仕置きは、この戦いの本来の当事者である水野金吾に任せたということである。

 更には、数え切れないほどの信長の小姓衆歴々が、手負い、または死に、「目も当てられぬ有様」となったことに「感涙を流させられ」たとある。この戦いでは、信長自身が先頭にたって直に指示を出しており、それに応えようと、信長の小姓達の多くが勢い良く攻めたて、首尾良く砦を攻め落としたが、その反動も大きく多くの負傷者や死者が出た。その者達を失い涙を流す総大将を、情け知らずの残酷者とするのは如何なものだろうか。

 この『信長公記』の記述を信じるか否かによって答えが異なってくるのではないかと思われるが、信じる限りでは、信長の残忍性はここにはみられない。むしろ情け深い武将のように見受けられる。

文責:雷蔵   
(2001.8.17)
 

 


信長のイメージ<織田信長は本当に短気で残酷だったのか?


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