とある。
「城内も手負・死人、次第次第に無人になり、様々降参申候。」と、城内の今川兵が降参して来たところ、本来なら攻め滅ぼすところであったけれど、負傷者・死者が塚を築くほどになった上に、時刻も薄暮に及んだとして、「詫言の旨に任せ」て水野金吾にその後始末を仰付けている。この詫言(わびごと)とは謝罪という意味だから、降伏して命乞いをしてきた者の命を取ることなく、その仕置きは、この戦いの本来の当事者である水野金吾に任せたということである。
更には、数え切れないほどの信長の小姓衆歴々が、手負い、または死に、「目も当てられぬ有様」となったことに「感涙を流させられ」たとある。この戦いでは、信長自身が先頭にたって直に指示を出しており、それに応えようと、信長の小姓達の多くが勢い良く攻めたて、首尾良く砦を攻め落としたが、その反動も大きく多くの負傷者や死者が出た。その者達を失い涙を流す総大将を、情け知らずの残酷者とするのは如何なものだろうか。
この『信長公記』の記述を信じるか否かによって答えが異なってくるのではないかと思われるが、信じる限りでは、信長の残忍性はここにはみられない。むしろ情け深い武将のように見受けられる。
文責:雷蔵
(2001.8.17)