『信長公記』の天正9年4月10日の項(→)には、この侍女惨殺事件のことが書かれています。そして一般にこの事件は、琵琶湖に浮かぶ竹生島へ信長が参詣し、遠路なのできっとその日は長浜にお泊まりに成られるだろうと考えた城内の女どもが桑実寺へお詣りに出かけたところ、その日の内に信長が戻ったため、留守となった女どもはかばった長老もろとも惨殺されてしまったという理解になっています。
この事件について、遠藤周作氏の『対論たかが信長されど信長』(文藝春秋社)には、「信長が竹生島に行った留守に桑実寺に参詣に行った侍女が帰ってきたら、縛り上げてみんな殺してしまった。さらに寺の坊主まで殺してしまったとか伝えられています。伝えているのは『信長公記』です。しかし、そういう話はどうやら真実ではないらしいのです。桑実寺のほうでは、そんな事実はなかったといっています。われわれが頼りにしていた『信長公記』がどれだけ信憑性があるかということから洗い直す必要も出てきています。」と書かれておられます。遠藤周作氏が著作の中でこれだけ明確に示されて居られる以上は、桑実寺側ではこのような事件があったことを否定していることになります。
それでは『信長公記』の原文ではどうなっているのでしょうか。少し見てみます。
くくり縛り、桑実寺へ女房共出だし候へと御使を遣はされ候へば、御慈悲に御助け候へと長老詫言申上げられ候へば、其長老をも同時に御成敗候なり。
となっていますね。確かに遠藤氏の言うように「成敗」が惨殺を意味するものとは断言できないようにも受け取れます。
広辞苑で「成敗」を調べてみますと、「@政治を行うこと。Aとりはからうこと。処置Bさばくこと。裁断。Cこらしめること。処罰。また、斬罪に処すこと。」とあります。つまり厳罰という意味かも知れない訳です。「くくり縛り」とあるので、縛り付けて罰をあたえたのは確かなんでしょうが、城主の行動の意味を理解せず勝手な振る舞いをした女房共への仕置きということであるなら、それほどに残虐な話でも無いのかも知れません。
ただ、『信長公記』の記述の「桑実寺へ女房共出だし候へと御使を遣はされ候へば、御慈悲に御助け候へと長老詫言申上げられ候」にある、長老とは桑実寺の僧侶を意味するのか、若しくは女房共に連れ添った織田家の老臣を指すのかによって多少の解釈の揺れが生じる可能性はあります。この長老を織田家側の人間と解釈するなら、桑実寺側では僧侶が処罰されたという記録がないということも理解できることになるからです。
しかしながら、「御使を遣はされ」とあるところからは、信長が桑実寺へ御使いを出したと読むのが妥当でしょうし、これに「御慈悲に御助け候へ」と返答したのは、やはり桑実寺の長老ということになるのだろうと思われます。そう考えると、寺の長老を処刑されて記録に留めないということは、その後の寺の仕事を考えてもあり得ないことだろうと想像できますので、桑実寺の記録を信じるなら、厳罰で何らかのお仕置きはあったものの処刑したものではなかったとみるのが真実に近いのではないかと考えるのですが、如何なものでしょうか。
雷蔵(2001/07/12)
追記:2001/08/11
また、この「竹生島参詣の事」と同様の「成敗」の使われ方をしている『信長公記』の記述は他にもあるようです。一例として挙げておきます。